2012年3月4日日曜日

経過報告(4)

  日々の諸々その4(2012年3月~)。日付は適当です。


  2012年3月4日(日)
  買うべき理由をこれ以上積み重ねられても、『DEMONION』は一本しか買わないんだからねっ!(とキャスト情報を見ながら。それにしても「三十三七」氏ってどこで区切ってどう読めばいいんだろう? → 「みとう・さな」と読むらしいと、参加作品のライター氏がtwで書いておられる。そういえば「三上三九三」(みかみ・さくぞう)という方もいた。『D+VINE[LUV]』のメインライター。)



  2012年3月7日(水)
  興が乗ってきたので、この春はSLGに没頭することにした……ってこれ、井村屋氏のショタキャラじゃないですか!(『DC2』のツカサ) この角のとれた柔らかな発声、この完璧にコントロールされたテンポ、このゆったりとした息の長い芝居ぶり、そしてこの隅々まで神経の行き届いた丹念で精妙な表情付け、なんと素晴らしい……。
  でも、イリス学院長の台詞にヴォイスが付いていなかったのは残念なのでふ……。
  それにしても、かぐや作品のアダルトシーンには何かのスポーツの試合でも見ているかのような趣がある。自他双方の身体能力と技術とエネルギーの限界を試し合うような鍔迫り合いの全身運動的活動の描写という意味で。いみじくも行為を「全力疾走」に喩えたりパートナーを「対戦相手」と呼んだりする箇所がこの作品にあるが、それはこの作品の(そしてこのメーカーの)全てのアダルトシーンについて当てはまるかもしれない。実際、ただ読んでいるだけでこちらも疲れてくる。



  2012年3月9日(金)
  RPGばかりプレイしていると、ある種のもどかしさを感じることがある。常に現場に在り続けるRPG作品と比べて、SLG作品で体験できるあの緩やかさと視点の高さ――というか「RPG」「SLG」という言葉を今ここではそういう区分として便宜的に用いている――が恋しくなってくる。高所からの俯瞰というよりむしろ、距離を置いて眼前の架空状況を広く眺めたいという意味で。



  2012年3月13日(火)
  久しぶりにEGScapeへの個人投稿を追加。まだプレイしたタイトルの全てではない(――いまだに自分の中で評価が定まっていない作品がたくさんあるし、未プレイ作品と併せて未評価タイトルがほぼ同数残っている)。クリエイター欄では、草柳氏の参加作品が多かったのが意外で、そして木村氏の参加作品がまだまだ少ないことが悲しい。
  発売年ごとに点数の平均を出してみると、どの年もきれいに同水準(おおむね全体平均±3点の範囲内)だった。これは私の評価基準がブレていないであろうこと――つまり評価傾向が甘くなったり厳しくなったりはしていないであろうこと――を傍証してくれる。ただし、個人的経験的な偏りは確かにあって、2006年発売作品のプレイ本数が明らかに落ち込んで谷間になっているのは当時の心境が思い出されて少々辛かったり(苦笑)。
  各タイトルのCG枚数などのデータを「長文感想」欄に記載していたのがすべて消えてしまったのも困りもの(――これまで一言コメント欄には何も書かずに長文感想欄だけに書いていたのが、おそらくEGScapeの仕様変更により、そうした状態の感想テキストがすべて抹消されてしまった模様)。データが消えた(?)のは私がイレギュラーな使い方をしたせいなのでやむを得ないと納得しているし元データそれ自体は手許に保持しているので惜しくはないが、データをどこでどうやって公開するかについて再考しなければならなくなった。CG/HCG/Hシーンのデータは170タイトル以上、インストール容量のデータは70タイトル以上の分を持っているのだけど……このblggrで公開するとして需要はあるんだろうか。私なりの判断として、個別タイトルについてCG枚数等の定量的情報を提供することは積極的に行いたいが、しかしそうしたデータ部分だけをまとめて相互に比較することに手を貸すのは気が進まない。CG枚数のデータは、たしかに個々の作品に関する具体的情報ではあるけれど、しかしその数字同士は比較可能な(あるいはその比較によって個々の作品のなんらかの価値が測定され得るような)ものではないと考えているので。そうした比較へと閲覧者を誘導してしまうような、あるいはそうした比較を私が肯定していると見做されかねないような振舞いはしたくない。……EGScapeの一言コメント欄に自分が姿を見せるのも気が進まないのだけど、仕方ないかなあ。



  2012年3月14日(水)
  発売延期についてはユーザー側はできるだけ寛容である方がよいというのが私の立場。PCゲームは確かに商業製作される製品であり、ユーザー(消費者)側も時には予約金を支払ってまで購入するわけだし、そしてそれゆえきちんと予告されたスケジュール通りに入手可能になってくれるよう期待するのは当然だ。だがしかしそれはPCゲーム作品の一つの側面に過ぎず、そしてその嗜好品としての側面を無視することは適当ではないと思う。
  ここで「嗜好品」と呼んでいるのは、一つには「生活必需品ではなく、それゆえ延期によってユーザーが即時かつ致命的に困るわけではない」という意味もあるが、なにより重要なのは「あらかじめ目的と機能が客観的かつ一般的なかたちで特定された商品ではない」ということ、それどころかむしろ「代えの利かない個々のクリエイターの固有の資質とその成果に対する将来の(特定困難な)期待の上に成り立っている作品だ」という意味で。
  創作物に対する期待というのは基本的にそういうものだろう。ゲーム制作者たちは、作品のコンセプトとグラフィクスとテキストと音楽とその他諸々の素材をその都度「一から」新たなものを作っているのだし、ユーザーたちはその都度その都度のキャラクターの表情を構成する描線の一本一本を、その登場人物たちの台詞の代替不可能な一行一行を、それらを特定のテンポと抑揚の下に定着させ具体化させていく声優の一息一息を、そしてそれらが展開される一つ一つの作品の独自のゲームシステムとフラグとインターフェイスを、それらの特定のクリエイターによる特有の質を楽しんでいるのだ。もちろん現実のゲーム作品には、例えばジャンルによっては相対的に狭く特定された要求の下に制作発売されているものもあるだろう(例えば特定の性的嗜好表現を重んじるジャンルはその傾向が強いだろう)し、例えばBGMや背景画像を旧作からそのまま流用しているものもあったりする(例えばlight)し、比較的良く整序され規格化された手順で制作できるパートもあるだろう(例えば着彩パートはそのメリットを生かしやすいと思われる)が、それでも個々の制作スタッフが一つ一つ考えて――つまり「人の手で」――作っているという基本的事実は変わらないし、そしてそのような代えの利かない個々の人間によるガイドの乏しくも創造的であらざるを得ない制作過程がベルトコンベア式製造のように常に順調に進行するわけではないというのは、認識されるべきだろう。作家の個人的独創だの神秘的天啓だのに対する信奉を引き合いに出さずとも、なおもそう言い得るし、そう言う方が実態に即して公平であろう。
  いずれにせよ、嗜好品たる作品の受け手である我々ユーザーには、「良いものが出来てくるのを(出来てくるまで)待つ」以外のことはほとんどできないというのもまた確かだ(――その意味では、いうなれば非常に弱い立場にある)。いい加減な出来で発売されるよりは延期の方がよほどマシなのだし。当初の予定どおりに発売できるのがメーカーの経営にとって望ましいのは勿論だし、自分の嗜好に合った(合っている場合には)作品を継続的に制作してくれるメーカーが順調な経営状態で存続してくれる方がユーザーにとっても(もしも焼き畑的消費に開き直るのでないかぎりは)好ましいが、それはユーザーの手出しできる領分ではない。メーカーと流通/小売との間の関係については、ユーザーが直接関与し得る事柄ではないため、ここでは考慮に入れていない(――実際には延期行為は流通/小売等に対して少なからぬ迷惑を与えるであろうから、商慣行上はけっして称賛されるものではないだろう)。
  いささか逆説的な言い方になるが、この分野では毎月新作が多数発売されているのだから(「積」んでいるパッケージなど一つも無く、極端に限られた嗜好から、薄い財布で毎月の出費をやりくりしているのでもないかぎりは)延期されても手持ち無沙汰になることはまず無いだろうし、ひとたび自分が期待を寄せたスタッフなりコンセプトなりキャラクターなりがあるならば、『オルタ』だろうが『Rance』続編だろうが大槍新作だろうが『おま天』だろうが、その期待の度合いに応じた強さで予約券を握りしめ続けているしかないだろう。メーカーが食いつなぐための「お布施」(グッズ購入など)をどこまでするかはともかくとしても。
  ……あまり上手く書けなかったけど、大意は理解していただけるかと思う。



  2012年3月15日(木)
  さえき北都氏の絵は、ちゃんと肌にお化粧を乗せた(そのように認識できる)キャラ絵になっているのが実に好ましい。もちろんCG班との意思疎通&協調があってこそのこの成果だが、原画レベルでもそれがきちんと反映され得るように描かれていると推察される。頬に射す赤みや艶めきもそうだし、唇にはっきり色を乗せてあるキャラクターもわりと多いし、その他にも睫毛の描き込みぶりも、そして顔面だけでなくその周りのヘアスタイルも(天然自然の髪型としてではなく、またキャラクター表現の抽象的記号的な一部分だけでなく、)意識的に身だしなみを整えられた形のように描かれている(――ついでに言えば、あのどちらかといえば硬質な描線も、張り切ってメイクをして来た女性の緊張感を連想させている)。そのことが、現代ものの作品ではキャラクター造形に確かなリアリティの感触を付与しているし、ファンタジー寄りの作品においてもその世界その土地に固有の文化的背景の厚みを想像させる機縁となっている。
  もちろんこれは、さえき氏だけの話ではないが、この分野の中ではわりと珍しく凝脂とパウダーの香りを躊躇せず匂い立たせ(てくれ)ている原画家の一人として私は認識している。



  2012年3月16日(金)
  『だめがね』をプレイしている最中。これがなかなか面白い。公式サイトであらかじめ明言しているとおり、立ち絵を使用せず一枚絵のみで全てのシーンを通している模様。ただし、ただ無頓着にイメージイラスト的な全画面CGをべったりと画面に貼り付けて事足れりとしているわけではない。例えばサイズの大きな一枚絵を用意してその都度の状況や発話者に応じて縦横にスクロールしてみせたり(つまりカメラワーク相当の表現効果をもたらしている)、あるいは一枚絵の中にある人物部分をダイナミックに差分変化させてみたりと、その立ち絵自縛のスタイルの範囲内で様々な演出を凝らしており、その出オチとなることを辞さない背水の企画コンセプトのスリリングさと相俟って、奇妙なことにほとんど演劇めいた現前性の手触り――すなわち、その都度の特定の一枚絵構図を逃れられない状況下で人物部分やその他の事物が画面内を必死に動き回ろうとするその表現空間の表面張力が、書割セッティングから逃れられない状況で役者たちがその舞台空間全体を我が物としようと力を尽くす様子にオーバーラップして見えるという意味で――が通常のAVG作品の一枚絵シーンよりも強烈に感じ取られるようになっている。 インターフェイスの作りを見ても、 これがけっしてイージーな発想に乗っただけの企画ではなく自覚的意欲的な挑戦であることが窺われる。実際、この一枚絵限定進行のために掛かっている手間はおそらく相当なものであり、公式サイトで「立ち絵つくらなければその分枚数稼げるんじゃないの!?/そういう風に考えていた時期がおねーちゃんにもありました……」(※リンク)と自虐めかして嘯いているのも案外本音の述懐ではないかと思われる。(ところで「案外本音」って「安玖深音」と似て……いや、似てないか)



  2012年3月17日(土)
  先日の話の続き。EGScapeの一言コメント欄、みんなわりと真面目に感想や紹介を綴っているようで。一言コメントを書いてみようとひとしきり頭をひねってみたら、例えば「途中から眼鏡『を掛けるようになる』という貴重なキャラがいる。感涙に咽ぶ」とか「木村あやかといえば年下系やんちゃキャラのイメージが強いが、私見ではむしろ年上キャラのウェットで目の詰んだ芝居ぶりこそが素晴らしい。感涙に咽び泣くべし」とか「生音演奏のヴァイオリンが切々と歌いあげるタイトル画面のBGMとその変奏で展開されるBGM各曲の情趣は絶品」とか「柴木幕流の真言台詞が聴ける。これだけでも感涙に咽んだ」とか「FFDによるこの清澄なズーミング演出とこの猥雑なギャグの奇妙な融合。感激の嗚咽が抑えがたい」とか「ひたすら藤崎竜太を堪能できるのであれば、涙が出るほど笑えるに決まっている」とか「行きつ戻りつ見えつ隠れつする複数の主題-変奏型BGMの絡み合いが、落涙を誘うほど美しい」とか「バグに泣いた」とか「みる氏のモノローグ台詞ちょお楽しい。笑い泣ける」とかそんなのばかりになりかけて、これはちょっとまずいと悟って方針転換中。……いや、もちろん実際には一度も泣いていないが。
※――ちなみに、上から『ToHeart2 XRATED』、『水平線~』、『とっぱら』、『斬死刃留』、『ピリオド』、『ひめしょ!』、『パティシエなにゃんこ』、『青空がっこの~』、『Forest』に書きそうになったコメント。『水平線』へのコメントは『ヨスガ~』『恋色~』『Signal Heart』『借金姉妹』『あねいも2』等にも当てはまり得る文面だが(――木村さんの年上キャラってこの他にあったっけ?)。しかし年上といってもヒヨリさんや玉藻の前はどこか違う。



  2012年3月17-1日=?
  (アレな話題だったので削除。)



  2012年3月18日(日)
  ※単独記事化した:「眼帯キャラたちについてのメモ



  ca. 2012年3月19日(月)
  店舗別特典ドラマCDを8種類も用意するくらいならパートヴォイスでお茶を濁している本編をこそフルヴォイスにしろと、あるいはユーザーがそう希望するであろうと、スタッフは思わないのか? もちろん本編に組み込むイベントに音声を付けるのと単発のドラマCDを制作するのとでは制作工程上の融通の利く度合いが大きく異なるであろうことは理解できるし、おそらくこのブランドはそもそも「フルヴォイスがより良い形態(目指されるべきあり方)だ」という立場に立っていないのであろうことも分かってはいるが、それでもこういう作り方、売り方は「どの店で予約して買うか」で困らせるより前に「買う気」そのものを無くさせる。このあたり、「時間のムダ」で口だけ吹き上げていた頃からまるで変わっていない。



  2012年3月20±2日(火)
  自宅のゲームパッケージを整理。思い切って既プレイ/未プレイで大別してみると、これもプレイしていない、これもまだだった、このブランドはもう次回作が発売されている、こちらは前作からプレイしたい、と積むや積まざるやの心境。



  2012年3月1+2+3+4+5+6日(水)
  思うところあって青山氏と木村氏の共演作品を調べ上げてみた。2012年3月現在、EGScapeに登録されている37(+3+α)本は以下のとおり。

発売年本数作品名
20121+1『真剣で私に恋しなさい!S』(FD)、『英雄*戦姫』(発売予定)
20114『Tiny Dungeon ~BIRTH for YOURS~』(続編)、『World Wide Love!』(FD)、『恋色空模様 after happiness and extra hearts』(※クレジット無し、FD)、『あっぱれ!天下御免』
20106『ゆにばる!』、『恋色空模様』(※クレジット無し)、『Tiny Dungeon -BLACK and WHITE-』、『まじのコンプレックス』(※記載漏れ、続編)、『アザナエル』『世界征服彼女』
20094『PYGMALION』、『どんちゃんがきゅ~』(続編)、『MagusTale Eternity』(PSP版)、『ほしうた ~Starlight Serenade~』(FD)
200810『朝凪のアクアノーツ』、『さかしき人にみるこころ』、『リリカルDS』(FD)、『プラゥヴ クルイード』、『MagusTale Infinity』(FD)、『マジカライド』(※記載漏れ)、『とっぱら』、『片恋いの月えくすとら』(FD)、『ほしうた』、『真・恋姫†無双』(続編)
20077『夏めろ』、『恋姫†無双』、『Figurehead』、『片恋いの月』、『リリカル♪りりっく』『MagusTale』、『Aster』
20061『遥かに仰ぎ、麗しの』
20054『鬼神楽』(続編)、『光臨天使エンシェル・レナ』(続編?)、『チュートリアルサマー』、『でぼの巣箱』(FD)
20032『Maple Colors』『メイプルカラーズ』(PS2版)
番外2『いきなりはっぴぃベル』(2002年)、『はぴベルラヴ×2ハネムーン』(FD、2002年)
  ※双方が主演(メインヒロイン級)のタイトルは太字で強調してある。
  ※同一年の間では発売月順で記載している。
  ※ファンディスク(FD)や続編の区分は便宜上のもの。
  ※『まじのコンプレックス』には青山氏も出演している(公式サイトで確認できる)がEGScapeにはその旨記載されていないので、編者の判断で上記リストに追記した。同様に、『マジカライド』には木村氏も出演している(エンドロールで確認できる)がEGScapeには記載されていない。『恋色空模様』は、EGScapeにはキャストが詳しく記載されているがゲーム製品版――を含めておそらくおよそ公式媒体――では青山氏及び木村氏の出演は明示されていない。しかし、私が聴くかぎりEGScapeにおける青山氏及び木村氏の出演及び配役の記載は妥当だと判断している。『恋色空模様aheh』については、製品版クレジットにもEGScapeにもキャストの記載は無いが、これも本編と同じキャストと見做してリストに追記した。
  こうして一覧にしてみるとなかなか面白い。とりあえずApRicoT、STRONGER、Whirlpool、緑茶に足を向けて寝られないことが改めて判った。ちなみに私は、この中でまだ15本しか所持していない、ということは、少なくともあと25+α本分の幸せがまだ残されているということだ……いや、そもそも幸せでないゲームなど概念上存在しないと言ってよいが。



  2012年3月皇涼子のBitchな1日(土)
  時間と集中力と意欲が出来たので、フェイスウィンドウについて自分なりの整理を試みてみた。ただし、個別作品の列挙についても手許のSSを適当に漁っただけできちんと渉猟してきたわけではないし、構成もバランスが良くないし、部分々々の思考も突き詰められなくて疑わしい箇所が多いし、論述も不親切なかなりの荒書きのままで、正直に言えば、恥ずかしながら、ここ数年で私が他人の前に見せるテキストの中でもおそらく最悪の部類:「フェイスウィンドウの機能についての覚書」
  ところで、マルチウィンドウは、90年代のPCゲーム作品には時折見かけた。『フォークソング』ではフローチャート欄などが別ウィンドウで開かれる形式だったし、『VANTAGE MASTER』『水滸伝 天命の誓い』などのSLG作品でも、マルチウィンドウや可動表示ボックスは珍しいものではなかった。現在の国内アダルトゲームではアプリケーションのウィンドウは単一化されているが、それでも手動可変メッセージウィンドウ(例:rUPG、catsystem2)の中に痕跡器官的に残っているし、非全画面背景画像+擬似字幕型テキスト表示のAVG作品(『誰彼』[の一部]、『朱』、『MERI+DIA』、『ジャンゴ』、『さかしき人にみるこころ』、『かしましコミュニケーション』[の4:3モード]、そしてLiar-soft作品の多く、Eushully作品のいくつか)においても機能的な切り分けへの意識が窺われる。



  2012年3月鈴がうたう日(日)
  た……たかなしすみかって誰?(『桜花センゴク』PSP版のキャスト)
  最近、安玖深氏と風音氏のお声を聴いてないことに気付いてEGScapeを見てみたら、お二人とも去年(2011年)から出演が極端に減っているご様子。寂しいなあ。



  2012年3月26日(月)
  とある事情でとある方から『CANNONBALL』と『猫撫』をいただいた。どちらも猫ものなのは偶然なのだろうかと訝りつつも、せっかくなのでこのありがたい機会を生かすべく、優先順位を上げてプレイしたい。



  2012年3月26日(再)
  『大阪CRISIS』のことを思い出すと、冗談でなしに本気で気が滅入るようになったよね。
  http://www.turumiku.jp/osaka/kakimoto.html



  2012年3月26日(3周目)
  こちらに書くけど。フルプライスの男性向け商業アダルトPCゲームがCD-ROM媒体で発売されたのは、『オルタ』(2006年2月にDVD版が発売されて、翌3月に6枚組のCD-ROM版が発売)と、『よつのは』(2006年1月に初回版がCD-ROM2枚組で発売、同年9月にDVD版)あたりが今のところ最後、という認識でいいんだろうか。もちろん低価格作品、再販タイトル、乙女/BL等にはCD-ROM媒体のものがあるが。
  後日追記:『イナホノミライ』(2006年4月、CD-ROM2枚組)という例もある模様。



  2012年3月26日(おやしき準最終段階)
  来月は『DEMONION』『はるまで~』『虹翼~』を軸にして、あとは気分次第で。
  『蒼刻~』は後回しでいいや。(まさか『蒼海』シリーズとのリンクとかは無いよね?)
  げ18は、見る度に「嘘も百回~」というフレーズが脳裏をよぎるようになっているので。



  2012年3月春休み
  新年度を迎えたくないねえ……。年度末は年度末で大変だけど。



  2012年3月26日(月)
  フェイスウィンドウの実例検討記事で主人公顔窓表現についていろいろ書いていたら、つい熱が籠もってきてなんだか自分がショタ好きだったかのような気がしてきた……いやけっしてそんな筈は。いずれにせよ、一応真面目な記事として執筆しているつもりなので、引用する画像もできるだけまともなものを――妙なネタに走ったりしないように自重して――選んでいるのだけど、しかしせっかくだからと多少は面白味のある絵を挙げたくもあり……ぎりぎりのバランスでやっているつもり。あと、画像引用の枚数が多くなりすぎているのが心苦しい。ひとまとまりの記事群全体としては引用の範疇に収まる規模に留めておきたいが、しかしやはり是非とも紹介しておきたいと思ってしまうほどの素晴らしい絵もたくさんあって、たいへん頭を悩ませてくれる。……でもSSのチョイスから私の属性嗜好を勘繰ったりはしないでね。



  2012年3月28日(水)
  個人的な昔話になるが。あらためて振り返ってみると、様々な知的対象に対する自分の視座設定やアプローチは、「形式」や「様式」に強く着目し続けるという点では昔からあまり変わっていないのかもしれない。ある漫画(家)について集中的に文章を書いていた時も作品横断的主題論から始めたものの最終的には構図齣組分析に行き着いたし、大学(の文系講義)で講義録を採っていた時もノートをPCで編集しているうちに註解風、大項目式辞典風、縦書き化、読解テキスト風、講演録風、論哲風、etc.に体裁をアレンジしまくって楽しんでいたりした。「構成」と「編集」を重視する姿勢に慣れることができたという意味でも、自分自身の知的習慣の形成及び維持にとってあれらの経験はそれなりに役立ったように思う。もちろん専門家(大学教員)の講義を元にしているのだから内容上の正しさを疑う必要は無かったし(――そういえば先日こういう言明[tw: 183391161614991360 / 183393201162432512 ]を見かけたが、その「衝動」つまり動機の部分を肯定するかどうかは別としても、ある段階における執筆及び構成の訓練になるという点は同意できる)。
  ところで、講義ノートの様々なヴァージョンがコピーされていく過程を見ると、印刷以前の時代に一つのテキストに複数の写本が生まれては伝播し流通していったというのも腑に落ちるよね。web上でも、wiki編集やクローリング等によって複数のヴァージョンが生成されていくという事実があったりするし。



  2012年3月30日(金)
  『声優*戦姫』とはなんとも言い得て妙な……。確かに、なまじの発想では敢行できそうにない刺激的なキャスティングだ。(榊ノストラとか松田カエサルととか北見ラスプーとか、やり過ぎかもと思わないでもないけど。)一枚絵のサンプル画像を見るに大槍氏はワイドに手をつけるべきではなかった――周囲の空疎感を解決できていない――とは思うが、それでも丸2年ぶりの新作とあってはどうこう言わず丸呑みに受け入れるしかあるまい。
  あの世界では、民安「三蔵」はきっと、教典ではなく『雫』『痕』を伝道しているんだよ!



  2012年3月31日(土)
『水平線まで何マイル?』 (c)2008 ABHAR

※「フェイスウィンドウの機能についての覚書」記事より再掲。

  引用に適当なスクリーンショットを撮るためというなんだか本末転倒な目的で『水平線~』を再インストールしてみたら、つい興が乗ってEDまでずっとプレイしてしまいそうに……。
  この特徴的なレイアウトについて、最初にプレイした時は「このようにした理屈は分かるけれど、なんだか作為的であまり良い印象は持てない」と思っていたものだが、見直してみるとなかなか上手いデザインだと素直に受け入れられた。上掲画像を見てのとおり、この画面構成の最大の強みは「メインの立ち絵が、テキスト等によって遮蔽されることがなく、比較的大きな空間的余裕を持って、はっきり見えるようにできる」という点にあり、そしてこの戦略はこの作品の武器(原画:深崎暮人)をより良く活かすことに成功している。本作におけるワイド画面の採用が何を目指した上での選択であったのかは定かでない――作中舞台の広がりを強調する趣旨もあった筈だ――が、読み物AVGとしても、立ち絵の魅力を押し出すという――AVGの現代的スタイル――意味でも、ワイド画面ならではのレイアウトになっている。一見するとかなり柔軟な表示が行われているように印象づけられるが、実際にはテキストと立ち絵画像の表示位置が常に固定されているため、非常に読みやすい。一行13文字というバランスも、短い会話科白が行き交うAVG作品に際しては、一つの見識と言えるだろう(――少なくとも、ワイド化初期に時折見られたような、画面下部に一行40文字もだらしなく広がっていく体裁に比べれば、はるかに読みやすい)。また、――先日の記事の可読性に関する議論との関係でいうなら――その都度のテキスト開始位置とキャラクター顔面表示位置とが比較的近接した場所に現れるため、視線移動の困難も僅少で済んでいる。ちなみに、影が掛けられている面積が大きいためヴィジュアルノヴェル形式かと思われるかもしれないが、本作はそうではない。地の文一行毎、あるいは一人のキャラクターの台詞一つ(一ワード)毎に、テキスト表示は更新される。それゆえ、画面右側を大量のテキストが占拠するということは無く、そして画面右側下段の空間は他のキャラクターの発言の際に顔窓用スペースとして有効利用される(上図参照)。また、一枚絵シーンでは、一般的なAVGと同じようにテキストは画面下部表示されるため、ここでもテキストによる画像遮蔽は極力抑えられている。いずれにせよ、こうしたスタイルは本作が最初というわけではない――とりわけ『果てしなく青い~』と『めぐり、ひとひら。』はこれの先駆でありそして縦書きの方がこのスタイルにはいっそう親和的であろう――し、このスタイルが支配的な型になってしまっても少々困るが、使いどころを上手く見出した慧眼のアプローチであることは間違いない。
  ……もしも「失敗」というならば、当時感じた不満の原因は主に脚本面の失敗だったのかもしれない。とりわけ、男性友人キャラクターが出てくる度に、動きの乏しい一対一会話が延々続くというのが序盤に度々あったせいで、その第一印象を引きずってしまっていたように思う。物語が動き出してからは、多人数が居合わせている場面が増えて、画面左側の立ち絵も頻繁に入れ替わって、目を楽しませてくれるようになる。少なくとも、けっして画面レイアウトの問題ではない。
  あと、面白かったのは、モーターグライダーに関するいくつもの「講座」シーン。「電動機と発動機の出力特性」、「可変ピッチプロペラ」、「速度と揚力」といったトピックについて黒板板書風イラストとデフォルメ立ち絵を使って詳しい説明を提供してくれるもので、『うさみみデリバリーズ!!』の軌道エレベータ講座を連想させ、そしてあれよりも随分手が込んでいた(――板書画像も詳細かつ大量に用意されている)。わざわざ回想モードで「講座」シーンも閲覧できるというのは、いささか微笑を誘う仕様だが。そして、最後に強調しておくが、キャストも素晴らしい。

  余談になるが、AVGの一行の字数は、25±3文字の範囲に大多数の作品が収まると思われる。これは、解像度の変化やワイド化によっても、ここ十年来基本的に変化していない。字数設定はブランドによって――作品毎の画面設計によって、また部分的にはエンジンの基本設定によって――ある程度似たようなバランスが採用されることが多い。フキダシ型や縦書きのような特殊事例を別とすれば、一行あたりの字数が多いのは――以下概算と例示のみながら――nitro+(『ジャンゴ』35字)、minori(『はるのあしおと』35字、『eden*』も)、キャラメルBOX(『アリスマチック』34字)、light(『R.U.R.U.R』32字、『群青』34字)、SkyFish(『はるとま2』32字)など。少ないのは:ういんどみる(20字)、Liar-soft(21字)、UNiSONSHIFT(22字)など。その他、『彼女たちの流儀』19字、『おたく☆まっしぐら』19字、『碧ヶ淵』20字あたりも一行横幅あたりの字数が少ない部類。意外なことに、ヴィジュアルノヴェル形式でも少なめにしている場合がある(『めぐり、ひとひら。』17字、『ToHeart2 XRATED』20字)。文字サイズを大きくするためであろうか。



  2012年4月7日(土)
  困ったことに、とある作品のとある立ち絵シーンがあまりにも素晴らしすぎて、このまま一瞬たりとも時間を(クリックを)進めたくないと感じてしまった。これまでにも何度か似たような経験はあった――「このシーンを見られたらもう今日は満足だ」という経験それ自体はそんなに珍しいものでもないだろう――のだが、今回は症状が重くて、ゲームを起動するやそのシーンを目に入れては嘆息しつつ見つめ続け、しばらくすると切なさに耐えきれなくなって閉じるほかなくなる、といった具合。おかげでこの一週間、PCゲームの新作にまったく着手できていない(――旧作の再プレイや家庭用タイトルのプレイはしているが)。どうしようもないので、そのシーンのSSを撮ってその画像を開いておいたままにして自らの心を慰めているところ。もしもこのままこの地点を私のゲーマー人生の終着点としてしまったとしてももう惜しくないと思えるくらい。
  ちなみに、それとは別に『痕』(1996年初版)を再プレイしていたのだが、これもまた素晴らしかった。16年を経た現在でもすべてのフィクションキャラクターたちの中で千鶴さんを特別な位置に置いている方々に、私も深く頷くことができる。同じ脚本家が六年後におそろしくこなれたテキストワークで全面リライトした版よりも、生硬さを残しつつも突き詰めた切迫感のあるこの初版テキストの方がこの物語には相応しいとすら思えたし、BGM切り替えと種類豊富なSE挿入による演出も、現在我々が接している一般的なAVGのあり方と比べれば一つ一つの生成変化がいかにも粒立って見え、この現在の私の感覚においては非常に勁烈な――この意味ではもしかしたら1996年当時のゲーマーが感じた以上に鮮烈な――表現として受け止められた。序盤の朗らかな管楽編成BGM「夏の追憶」(作曲者:石川真也)が、凄惨なドラマを乗り越えた締めくくりのシーンで、シンプルに浄化された形へとアレンジされたBGM「やすらぎ」として再度回帰してくるところも、たいへん印象深い。これだからゲームはやめられない(――結局、もちろん、やめるつもりは更々無い)。
  さらに余談ながら、その前の『雫』も、BGMの作りが実に良かったと記憶している。作中でオルゴールのメロディとして現れることになるある重要な動機がBGM各曲の中で陰に陽に延々鳴り続けて、そのオルゴールの音色にによって象徴された物語上の(つまり登場人物の心理上の)呪縛を音響表現の層において執拗に強調していた。まさにライトモティーフと呼ぶべき用法であり、そしてこの作品のそれほど独創的でもない脚本に対して強烈な彩りを与えつつこのBGM群こそが作品全体の「質」を主導していた。作曲者は、折戸伸治ほか。



  2012年4月8日(日)
  「フェイスウィンドウの機能についての覚書(実例検討)と「立ち絵演出の歴史的経緯に関する検討資料(http://cactus4554.blogspot.jp/2012/04/casestudy.html)」(※記事削除)にいただいたコメントにお返事をしました。
  コメントは率直に書いたつもりだが、あまりストレートな応答になっていないかもしれない。創作物や創作実践に対しては、よほど周到かつ慎重に背景理論を用意しておくのでもないかぎり、基本的には多様な実例を後追いしつつ認識枠組をパッチワークしていくしかなく、厳密な定義をトップダウンで与えることは難しい、というのは私の基本的立場なので仕方ない。仮に規約的に定義を与えたとしても、そこから漏れていく逸脱的事例の方がむしろ現象として興味深いものだし。
  背景画像に嵌め込まれる人物画像が汎用画像の流用であるかその場面固有の専用画像であるかの違いは、見た目の驚きはあるかもしれないけれど、プログラム評価のレベルでの技術論に踏み込むのでもないかぎり、やはり基本的には評価上の違いをもたらすものではないように思われる。また実際には『とっぱら』『だらよ』『水平線』『えむぴぃ』のような中間形態も様々に存在するし、それらの特質及び意義は「その画像が他の場面でも使用されるか否か」には依存しない。例えば『えむぴぃ』の場合は汎用素材の使い回しであることがギャグになっているという、さらに一ひねり加えた演出になっていたが、それも一般的分類の中から自明に出てくる評価ではなくてその作品固有の造形に照らして初めて説明がつけられるものだ。
  それはそうと、『メタモルファンタジー』には、教室内の背景画像のシーンで、机の上に置いてある(描かれている)人形を学生と見做して主人公たちがその「人物」の噂話をするという妙なシーンがあった。最近の作品――タイトルは忘れた――にも、背景画像に描き込まれているモブの一人をテキスト上で言及していじり回すという遊びをしていた作品があったらしい。珍しいアプローチではあるが、こういう自由さはたいへん好ましい。



  2012年4月9日(月)
  ユーザーの間にも、そして制作者側(の一部?)にも、「AVGの立ち絵表現は、PLとPCの視点の同一化を目指している、あるいは、そのような写実的一致が確保されねばならない」という考えを持っている人たちがいるようだが、私にはそれはまったくの見当違いであるように思える。少なくとも、私のゲーマーとしての経験の中はそれを支持するような認識はまったく存在しない。

  もちろん、『オルタ』をその最も徹底的な例として、写実的視界表現をAVGの中で追求することがあり得ないというわけではない。しかし、AVGの画面が一般的にそのようなものであるとか、それを目指すべきだとか、そうでなければ何か破綻を来すのだとかといった評価は、理解できないし、また実際に『オルタ』のような画面構築や個別演出を試みている作品は、現状ほぼ皆無に等しい。私自身、例えば「写実"志向"」というような言い回しを何度かしているが、それはあくまで写実類比的な(つまり現実世界における事象や空間認識を手掛かりとしその感覚や知覚の経験を経由することによってその意味が受け手に把握されうるような)視覚表現要素を取り込んでいるという意味であって、視界表現そのもののシミュレーションであることを意味してはいない。例えば画面端の見切れ表現にしても、素朴な視界外表現というよりは舞台袖表現に近い様式化された振り付け表現として捉えるべきだろう(――もちろん、舞台表現になぞらえるのも、一つの便法に過ぎない。AVGはAVG固有の表現として捉えられるべきだ)。立ち絵のサイズ変更や背面/側面立ち絵による空間表現にしても、あくまでAVGの共有文法の下で構成的に認識される一つのスタイルであって、現実感覚そのものに直接依拠した自明の表現というものではない。実際にAVGの画面は写実的再現ではない――現実の作品の画面をそのように捉えることは私には困難だ――し、現実的/写実的忠実性に囚われない方がAVG表現の可能性をより大きく開いておくことになるだろう。



0 件のコメント:

コメントを投稿