2012年10月24日水曜日

経過報告10

  なんちゃらかんちゃら。(2012年10月下旬~11月)


  2012年11月末日(金)
  今日も7本購入。今年に入ってから毎月、アトリエさくらとSH-sealのどちらかを買っているような気が……って、ああっ、飯野汐里ヴォイスで赤目黒髪ショートな刑務官制服キャラがいるDevil-sealの新作を買うのを忘れてた!


  人間の耳(または脳)は、どうやって個人の声を識別しているのだろうか。例えば大波氏や青山氏のように声色の特徴のはっきりした方なら、サンプルヴォイスを2秒も聞けば自信を持って即答できるが、これはどういうメカニズムによって可能になっているのだろうか。この私は、声帯振動パターンのごく微少な相違のどこをどうやって聞き分けているんだろうか。たとえば「人間が適切な重心移動と筋肉収縮を瞬間々々コントロールしながら二足歩行出来ているのは、どうして成り立っているのか」という問と同じように、あらかじめ備わっている身体的機能と一定の習熟によって自然に出来るものなんだろうか。それとも、「みつみキャラと甘露キャラを見分けられる」のと同じように、意識化されにくいところで一定の規則性のある相違を発見しているからなのだろうか。


  昨日言及した論考について。繰り返すが、「動き」「立体感」「第三者」「融合」の指摘それ自体は興味深い。表現効果の次元から表現手段(技術)の次元に遡ってみれば、前二者は一枚絵(全画面画像)のどのような操作によってどのような効果をもたらすことができるかについての例証であり、後二者は立ち絵(または人物画像)のいかなる使用法がいかなる作用を持ち得ているかについての代表例になっている。一枚絵の移動や連写が運動や空間性の表現をもたらし得ること、あるいはそれらがいわばカメラワークを代行するかのようにして特定の表現効果を発揮し得ること、そして、立ち絵の様々な使用法が特定の文法的機能を担ったり、あるいは他の要素素材と協働して拡張的な作用を果たしたりするということ。記事のSS群はいささか読み取りにくいかもしれずまた事例選択には(昨日述べたように)いささか疑問が残るとしても、それらの例証はminoriの――そして現代AVGの――評価に新たな視点を提供することに大きく寄与するだろう。
  ただし、それはminoriのみに帰せられる功績ではなくもっと幅広い文脈の中で大きく捉えることの可能な――そして公平な評価のためにはそうすることが必要な――論点だとはやはり思う。


  tw上でしばしば見かけたあの言葉は、あの発音上の語感もその平仮名の字面もその自己愛に浸された用法もまったくもって好きになれなかったが、「FAVORITE作品をプレイする(あるいは購入するとか"布教"するとか)」という意味で読めればなんだかすごく嬉しくなれる言葉のように思えてきた……これはいいかも。FAVOる!


  おそらく公式には作者の名は明らかにされないであろうが、マイスター諸氏なら「福島希望」ちゃんを生み出したイラストレーターを探し当てられるよね?



  2012年11月29日(木)
  [ okubswa.blog.fc2.com/blog-entry-2.html ]:minori演出の紹介としては意義があるが……。

  最初の「ゲーム性」に関するくだりは、その語義を「ゲーム媒体ならではの手法」と抽象的に再定義しているだけであって実質的要素を指示していないため、(いくつかの注目に値する作品への言及を別とすれば)分析としてはほぼ無価値であるが、ただ単に規約的に自分はそういう用語で――つまり「ゲームならではだと感じられる要素、あるいはこれはゲーム媒体に特徴的だと思える要素」という意味合いで――書きますという宣言として読めば問題無い。
  もちろん、「ゲーム性」の一般的な語感及び用法から大きくかつ不必要に逸脱しているという点では、大いに問題がある。ごく形式的な言語使用の問題として、「ゲーム性」を「ゲーム的であること」「ゲームらしさ」「ゲーム分野の作品に特徴的だと考えられる要素」と読み替えることは一応可能ではあるが、一般的な慣用としては「一定のルールを所与とした目的追求的活動(とりわけ、勝負事などの挑戦要素)」としての側面が強調されるのが通例だろう。また、それが実質的に対象としている範囲の恣意的かつ不必要な狭さ――事実上「AVGに特徴的だと考えられる要素」のみにその射程が限定されており、しかもその取り上げ方も恣意的なままである――にも、問題がある。そして、ほとんどどのような対象でも恣意的に投げ込めるという意味では、この再定義は通常の「ゲーム性」概念の欠陥をなんら克服していない。
  余談ながら、個人的には「ゲーム性」という語は、「(その作品の)ゲームとしてのあり方」というほどの意味で、分析の対象乃至視座をさしあたり指示するためにのみ使うようにしている。実質的意味内容をあらかじめ担わせて使用するには不向きな言葉だと考えており、上記のように「ゲームならでは」という比較的強い価値的選別を伴わせることに対しても否定的に見ている。

  作品個別の分析及び評価に関しては、特有の技術的手段による「動き」「立体感」「第三者」「融合」の四つを指摘しているくだりは、minoriの画面構築の特徴の整理として十分示唆的だ。とりわけ第一点は、どのように画像を使うことによって物理的運動が表現できるかについての事例紹介として興味深い。また、第四点の「立ち絵(人物素材)と背景素材」の緻密な組み合わせという点は、実際にminori自身が声高に主張してきたところでもあり、それを素直に受け入れている。
  ただし、第二点の「立体感」の部分は的外れと思われる。この畑のシーンの過剰なカット割りは、その視覚表現の贅沢さを感じさせるものではあったが、ここで何かの「立体感」が表現されていたかというと、積極的なものは出てこない。いったい何の立体感なのか? 畑を空間的に表現することによっていかなる効果が得られているのか? この部分はとりわけ説明が足りておらず説得力に欠ける。
  また、第三点の主人公の画面内登場とその意味についても、読者の第三者性を強調しているのだとする説明の仕方は、疑わしく思われる。例えばこのブランドが「群像劇」という看板とともにしばしば物語における主人公の特権性を排除するような作品作りを行ってきたことは確かだが、しかし主人公の立ち絵表示をして読み手自身の立場(作品外在性)を意識させるためだとする理解は、これまた的外れであるように思われる。
  さらに、その評価的側面――minori好きの通弊であるminori特別視の傾向――には賛同できない。『eden*』は私もプレイしたが、1)無理のある接写連続は、「動き」の表現としてまったく効果的ではなかった(――演出担当者の意図としては確かにこれによって運動のダイナミズムを表現したかったのだろうが、その効果においては成功していない)。2)畑のシーンに対する上述の疑念は、当該作品解釈に向けられると同時に作品それ自体に対しても向けられる。3)画面の三割を占める背面立ち絵も、その画面構成としての鈍感さについては、これまで何度か述べてきたとおりである(――余談ながら、フレアVFXから白光に至るまでのこの画面の逆光表現への技術的注力は注目されてよいと思う。好みではないが)。4)立ち絵と背景の「融合」も、当然ながら、minoriによる発明ではなく、それどころか「立ち絵+背景」型AVGが成立したその最初の瞬間――十何年も前――からすでに行われていたものである。『かまいたちの夜』(1994)、『痕』(1996)に始まり、その後もアダルトゲームの内部でもLiar-soft(この文脈では特に『腐り姫』[2002])、ぱれっと(2004年の『愛情cute!』以降、特に近年の『ましろ色~』[2009])、ういんどみる(『ツナガル★バングル』[2007]以降)、ApRicoT(『AYAKASHI』[2005]は近年のminori作品にも遜色無い出来である)、FAVORITE(とりわけ『はっぴぃ☆マーガレット』[2007]が特徴的)、すたじお緑茶(とりわけ『片恋いの月』[2007]以降)、light(特に『タペストリー』[2009]以降)、age(『マブラヴ』シリーズ)のような意欲的な挑戦は営々と続けられてきており、そしてminoriもその大きな潮流の一つとして位置づけられるものでこそあれ、けっして特別な例外的存在ではない(――『eden*』の画面構築スタイルと最も良く比較できるのは『腐り姫』の人物画像描き込みだろうか)。上記記事は「ノベルゲームの新しい在り方・更なる可能性を模索する動きは出てきている。この動きが大きなうねりとなって業界全体を巻き込んだ流れになる可能性は極めて低いと思う」と悲観的に述べているが、私見ではそのような動きはここ十年来常に、あるいはPCゲーム史全体に亘って常に、活発に存在し続けてきたのであって、その懸念は幸いにも杞憂である。
  結局のところ、minoriの具体的な演出センスの悪さに照らしてみれば「minoriはかつてない高いレベルでこれらを一つの作品に埋め込んだ」という主張にはまったく首肯できないし、PCゲーム技術史をほんのわずか振り返ってみるだけでも「今まで触れたことのない、新しいノベルゲームの誕生であった」という命題は明らかに偽である。私見では、minoriは、アイデアは良いがそれを実現する現場技術(テキスト、レイアウト、スクリプト)がいまだ拙い。蓄積を踏まえてフラッグシップ的品質を提示するブランドではなく、あくまで実験性によって評価されるべきブランドだと位置づけている。また、個別作品について「○○のような特質がある」と述べることは許されるが、「○○は新しい表現だ」と安易に述べてはならない。
  なお、私が以前に『eden*』について感想を綴った時は、右記のような感じだった。再プレイもしていないし、この評価は今でも基本的に同じままである。[cf.  twilog.org/cactus4554/date-101212 ]。

  論述の第三のブロックは、前提として提起されている一連の命題――「『テキスト』から得る情報にはある種の正しさ、『客観性』がある」あるいは「『動き』は時間的制約を受けるが『テキスト』は時間的制約を受けない」――が致命的に誤っており、議論を有意味なものとして理解するのに苦労させられる。
  ただし個人的には、クリック進行を基礎とするAVGにおいて、視覚表現とテキスト表現との間に時として発生する(ように感じられる)時間的進行のズレとそれに対する対処(制御)は興味深く、そしてminori作品はその難しさを特にはっきりと露呈させていると考えているので、この点をこそ具体的に検討してほしかった。

  全体として、『eden*』の特徴的な表現様式の紹介としては十分な意義があるが、持論展開部分は空転を感じる。3000字を超える独立の記事ならまず目次を書け、とも思う(――構成の欠如という問題は、この人物に限ったことではないが)。

  ……って、あれ、なんで私はこんなに(一見すると)悪しざまに言ってるの……。しかも、どうしてこうなった、なレベルで。初めて知った方なので(minori過褒バイアスに引っかかる点を別とすれば)好き嫌いがあるわけではないし、むしろこういう関心を持っている方々には頑張ってほしいのだけど。しかし、読むかぎりでは、そして公平を期して評価しようとすれば、やはりこのようにしか言えない……。



  2012年11月28日(水)
  幅広く捉えてみれば、案外多かったりします……1)ゲーム内部から、2)インターフェイスを通じての、3)プレイヤーへの、呼びかけは。典型的には、キャラクター音声によるシステムSE。例えば、ゲーム起動時には午前中であれば「おはよー、お兄ちゃん」と挨拶し夜中であれば「こんばんは、夜更かししないでね」と気遣ってきたり、「シーン回想」をクリックすれば「恥ずかしいわ、見ないで……」と反応したり「わーエッチー」と揶揄したり、あるいはアプリケーション終了時には「もう帰っちゃうの? また来てね」と呼びかけてきたりする作品がある(――例えば、すたじお緑茶pajamas softの作品)。あるいは、ED到達時に作中キャラクターが攻略アドバイスを示唆してくる(――古典的には『痕』の四姉妹たちの訴えかけ、あるいはフラグの難解な『THE GOD OF DEATH』の「クイズ・シニオネア」など)。タイトル画面で放置するとヒロインたちがプレイヤーに対して様々な紹介を始めるPurple software作品群のデモも、これらと関連づけて捉えることができるだろう。さらには、選択肢決定時に画像やSEによる好感度変化が表示される場合にも、同じようなことが生じているとみることができる。例えば『星空のメモリア』では、プレイヤーが過去に選択したことのある選択肢について、それがどのヒロインの好感度を上昇させるかが視覚表示される(――各選択肢にマウスカーソルを当てると、対応するヒロインのSD画像が各選択肢の横に表示される)。あるいは、場所移動選択の場面で、それぞれの移動先候補にヒロインイベントが待っている場合にその該当ヒロインが画像表示されてユーザーの目を誘うような動きを見せるならば、それはプレイヤーに対するモーションではなくプレイヤーに名宛したアクションと捉えるしかないだろう。SLG作品などで、ゲームシステムを説明するチュートリアルシーンも、当然ながら物語の外部のメッセージである。あるいは、ユニットをクリック選択した時にそのキャラクターが音声で反応する――「頑張ります!」「えーめんどくさいー」など――という場合も、それらはPCに対する反応なのかPLに対する反応なのかは判然とせず、後者として受け取ることは十分可能である。面白い例として、『葵屋まっしぐら』のCG閲覧モードには、個々の画像に対してヒロインたちによる回想的なコメントテキストが添えられている。ゲーム内である特殊なモードを開こうとする際に、作中キャラクターが警告を発してくるという例もある(『はなマルッ!2』)。ゲーム開始画面での特殊な(冗談めかした)警告として、『最果てのイマ』も。『エインズワースの魔物たち』では、物語の趨勢に対して決定的に影響する重要な選択肢場面で、トリックスター的キャラクター(もの言わぬジャック・オー・ランタン)が誘導的な素振りを示してPCの認識に働きかける。ユーザーのプレイスタイルに対する最も刺激的な直接的介入の例として、『右手が止まらない~』シリーズが挙げられたのを読んだことがあったが、私はプレイしていないので詳しくは分からない。
  ただし、そもそも「ゲーム」という表現形式においては、「作品の内部と外部」、あるいは「『作中』の現象とそうでない要素」、「物語本編とそうでない部分」といった区別は自明ではない(――私見では、むしろ、単純に二つに分けることのできないその現れの複雑さこそが、「ゲーム」というメディア形式の重要な特質である。TRPGのマスターの言葉や身振りが完全にそのどちらかに排他的専属的に分類されるものではないのと同じように、あるいはスポーツにおいてもルール化された試合上のアクション以外の無数の物事がその試合[ゲーム]の興趣として取り込まれているのと同じように)。そして、キャラクターたちは、物語の内部に自足してただ演じているだけでなく、様々な形でユーザーに対して語りかけ、働きかけている、というのが実情だろう。また、上記のような多様性の中で、プレイヤーの振舞いに対する個別的実質的介入の場合のみに限定して考えようとする場合には、その限定の意図及び正当性についての説明が必要になるという点も、留意されるべきだろう。[ twilog.org/mp_f_pp/date-121128 ]


  tactics/key界隈を中心とする(と思われる)一部のアダルトゲーム受容層が不格好にも現代哲学等の術語を借用して理論武装し続けてきたあの奇妙な傾向について、「あれは当時、『(アダルト)ゲームで泣くなんて』と軽んじられており、その偏見に抗して、あるいはそのコンプレックスから、自分たちの感動を正当化するためにそういう理論武装を行っていたのだ」といった説明を、ここ数年の間でも何度か――しかもおそらく当時まさに当事者であったとおぼしき人々の発言として――目にしたのだけど、あれは本当なんだろうか? もしもそれが事実だったのなら、それにコミットしていない一個人の立場としては「可哀相だ」と思うが、現在現役のゲーマーの立場としては「そんなルサンチマン、知らんがな」と言いたいし、観察者(傍観者)の立場としては「動機が何であれ、その理論武装の不格好さ(理論におけるその水準の低さ)とその権威追求思考のゆがみっぷり(実践におけるその議論の血栓化)に変わりはない」としか思わない。
  しばらく前にも、哲学者たちの言葉を――まるで真理の源泉のように仰々しくしかしパッチワーク的に――引用しながら『イマ』か何かについて論じていたテキストを目にしたことがあったけど、哲学紹介部分の今更っぷり(そして専門家にはとても読むに堪えなかった)と、哲学と創作物との間の媒介に関する意識の――つまりその適用の正当性及び妥当性に関する慎重な吟味の――欠如、そしてそのくだくだしい説明の当該作品との関係の無さ(そんな作品だっけ?という疑念)、いずれにおいてもどうしようもないレベルだった憶えが。初発の動機の側がどうだったとしても、結果の側でも実際にああいうものを生産することしかできないなら、つくづくそんな「哲学」――括弧付きの――は要らないなあ。そういうのが出版に取り入って「産業」化したとしても、通常のゲーマーにはほとんど何のメリットも無いし。それに対して、きちんとした歴史研究は、あって良いと思うが。つまり、作品を並べて適当な星座を描くお遊びではなくて、事実を語り残す仕事。



  2012年11月27日(火)
  おお……声優さんが眼鏡を着用されるだなんて、素晴らしすぎる。
  自身が眼鏡を着けておられるPCゲーム声優さんは何人かいらっしゃる(民安氏とか上田氏とか新堂氏とか杏子氏とか藤乃氏とか藍川氏とか。男性声優では一条氏とか)けど、「眼鏡っこ(を演じるのが得意な)声優」というカテゴリーはさすがにまだ存在しないか。個人的には松永氏と青山氏を推したいところ。松永氏の眼鏡キャラは、管見の限りでは、葉木崎零、蝉丸繰莉、メリル、ナタリア、今宮紀子、シンフォニックリリー、田中加奈多……えーと、このくらいだろうか。青山氏が演じたのは、ヴィヴィ、真柄亜利美、井原頼子、渡会丹生、三木真智子、賈駆、ホリー、水篠碧衣、ビネット先生、及川千夏……所持リスト等を見ながら思い出してみたけど、まだ他にもいそう。眼鏡キャラを演じてほしい方というと、夏野氏とか鈴田氏とか五行氏とか金松氏とか西野氏とか(以下略)。


  褐色肌は大好きな筈なのに、そのわりに、すごく気に入ったと言えるキャラクターに出会ったことはなかなか無いかも。『少女魔法学』のカヤとか『BB』のメリルとか『宵待姫』のナタルとか『月と魔法と~』のリリーとか『R.U.R.U.R』のタンポポたちとか……えーと、えーと。『Pia キャロ3』の冬木さん(かわしま氏の初期の出演作でもある)も思い出深いし『ぬるぷり』のティガルナさんも面白かった憶えがあるのだけど。『デモ二オン』『英雄*戦姫』『大帝国』のようなSLG作品だと褐色キャラの人数も増えてくれて嬉しかったのだけど。総合的には、着彩品質も含めてORBIT(CARNELIAN氏)の独擅場か。
  ……『はなマルッ!2』の話は(つらい記憶が戻ってくるから)やめろ!


  男装キャラか……主人公の例としては『輪罠』とか『サフィズム』とか。ヒロイン側としては、『ウィズアニ』(当初広報上では女性だと明かされておらず、隠しヒロインのように扱われていた)とか、『門を~』(男児出生率が極端に低下しているという作中世界の状況設定と密接に関連している)とか。『桜吹雪』の悪友キャラは、主人公に対しては性別を隠していなかったが、プレイヤーに対しては驚きを与えただろう。ゲーム序盤で男性主人公がそのキャラクター(初音雲雀)からキスされた時、(一部の察しの良いプレイヤー以外の)大多数のユーザーは、それを同性同士の接吻シーンと受け取っただろう。同じ脚本家(日野亘氏)が企画した『るい智』にも、男装キャラクター(才野原惠)が登場している。『こころナビ』には、ネット空間上で交流していた男性人格の中身が、オフラインでは女性だったというキャラクターがいる。ダーク系タイトルでは『魍魎の贄』(京極凪)なども。類例として、『BALDR FORCE』のバチェラは、ネット上でのみ交流していた主人公たちから当初は「引きこもりの男性オタク」だと想像されていた(※その想像図の一枚絵すら用意されていた)。『シャルノス』のモラン大佐も男装(軍服)の女性。モランを演じた桜川氏は、『小公女シャルロット』でも男装執事役にキャストされている。『はっぴぃ☆マーガレット』の石蕗晶も男子学生制服を着ている。『少女魔法学』の騎士ロゼッタは、主人公からぎりぎりまで男性と勘違いされていたが、本人はもとより男装のつもりではなかった。新作『月に寄りそう~』にも、男装執事キャラがいる模様。『ボクの手の中の楽園』のルーツィエも、男装してはいたが女性であることは当初から明らかだった。『姫様限定!』の男装執事キャラは、未プレイなのでよく知らない。『オト☆プリ』は、女装した可憐な主人公と男役風の凛々しいヒロインたちという、明確な転倒設定。性的徴表が何重にもひねくれている例として、『夢幻廻廊2』には、いかにも女性らしいメイド姿で傅いているが、性格はいわゆる「男勝り」という女性キャラクターがいて、しかも彼女の局部には男性のモノが移植されていて、そして他の女性キャラクターから道具で性的虐待を受けたり男性主人公(ショタ)と様々な仕方で交わったりするという……。EGScapeでも、POV「男装するヒロイン」に多数の作品が登録されている。
  これらの他にも、プレイヤーに対して(あるいは少なくとも主人公に対して)当初から性別を偽っている女性キャラクターというのは、それなりにいるが、しかし全体としてはいまだ「稀な存在」の範疇だろう。『さくらビットマップ』の親友キャラ女性化パッチ――予約特典:不思議な事もあるもんだ!――のような例を措くとしても。『PiaキャロG.O.』の姫川かずみ(:未プレイだが、身体的には元男性のヒロインであるらしい)とか、『バルバロイ』(:主人公が明示的に「シーメール」とされている)とか、『らぶKISS!アンカー』(:主人公が魔法で女体化したり、ヒロイン同士の百合EDがあったりする)とか、『鋼炎のソレイユ』の主人公(:女性の身体に転移した男性の意識。TSの一種だが)とかのことも思い出したり。女性に見えたヒロインが実は男性だったという不意打ちがあったのって、『罵倒』だったっけ(――いわゆる「男の娘」タイプでない男性同士の関係も、例えば『FESTA!!』のように、一定数存在する。EGScapeのPOV「♂×♂」にも多数のタイトルが登録されている)。

  ただ「身体機能的に」男対女の関係であれば「問題ない」という発想はいかがなものかと思うが。


  こうして定期的に記憶を耕して活性化させておくのも悪くないよね。もちろん、「お前はあの作品を知らないのか」「あのルートは未プレイなのか」「これを忘れているのか」というツッコミも出てくるだろうが。


  桜川氏の男性キャラ芝居って良いよねー。>『乙女が紡ぐ~』
  『Dear My Friend』の司とか『CloverPoint』の恋路橋とか。



  2012年11月26日(月)
  月末まで多忙になりそう。なのでこの雑記も月末まで(あるいは来月頭まで)更新しないと思う。
  今月も『幻奏童話~』を軸に何本か新作購入するつもり。発売リストを見たら『方言×彼女@はかた』なんてのがあるが、やはりちゃんと博多出身の方が演じておられるのだろうか(――web検索してみたら、福岡出身の声優さんはわりといらっしゃる模様)。脚本家の坂東氏は北九州市に住んでおられるようなので、方言表現の出来は信じてよいと思う。


  『門を守るお仕事』のシステムデザインについて。
  →単独記事化した:「『門を守るお仕事』のシステムデザイン



  2012年11月25日(日)
  ゲーム声優に限ってみても、好きな役者さん、尊敬する声優さん、感動的な名技を披露して下さった方、思い入れのあるキャラクターを演じられた方はもちろん無数にいらっしゃるが、その中でも、声優ファンとしてのこの私の心は木村氏に捧げてもいいと思うようになっている。どうしてこうなったのか自分でも分からないけど、木村氏の芝居ぶりに感性と感情のチューニングがぴったり合っているみたいな感じで、出演作に触れる度に、氏の演じるキャラクターの造形と存在感そしてその台詞の一言一言の息づかいに対して、のめり込んでいってしまう。なんでもない場面のごく普通の科白でも、そのアーティキュレーションの全ての瞬間に、その率直で楽しげな雰囲気に、その柔らかな声色とストレートな発声に、気持ちがどんどん入り込んでいって泣きそうになるくらい。
  とはいえこれは実はわりと最近のことで、当初『MinDeadBlood』(2004)でこましゃくれたキャラクターの芝居をされていた時や『いな☆こい』(2006)で愛らしい狐神キャラクターを主演されていた時はそれほど意識していなかったし、『夏めろ』(2007)の後輩キャラクターや『あねいも2』(2007)の年上幼馴染キャラクターの時に感じたその感情表現の痛切さ――その中のいくつかの悲劇的なシーンは、今でも記憶の中から甦ってくるほどに本当に痛々しく感じたものだった――も、もっぱら脚本サイドの業績なのだろうと思い込んでいた。自分にとって特別な役者さんとして注目するようになったのは『ツナガル★バングル』(2007)のポジティヴな同級生ヒロイン、『水平線~』(2008)の謎めいた先輩キャラ、『ヨスガノソラ』(2008)の控えめな(元)幼馴染あたりの作品だろうか。これらはそれぞれ大きく趣の異なるキャラクターにキャストされていたが、どれも素晴らしかった。みる氏と同じように、わりとどんな役柄でも幅広く演じておられる方で、そしてどんな役でもキャラクターの芯を――そしてその情動の正確な把握と表出意欲を――しっかり感じさせる芝居ぶりが印象的だった。
  私が所持しているタイトルの中でも、氏の出演作品はまだ40本程度だが、こういう方がいらっしゃれば――もちろんこの方以外でも、「聴ける」声優はたくさんいるのだし、自分にとってのそういう役者さんたちを見つけられれば――出演作品はほぼ必然的に「良い作品」になってくれる。もっとゲームをしたい。



  2012年11月24日(土)
  [ http://onsen.ag/program/gun-g/ ](第2回放送):最近出演作に何本も出会っているこの方の「萌花ちょこ」さんというお名前は、字面も可愛らしいし、こうして「もか・ちょこさん」と実際に発声されてみると耳にも心地良い。


  [ http://www.praline-game.com/moteore/ ](※リンク先アダルトゲームサイト注意
  傘キャラには、見境無く食いついて行っていいと思う。 『いつか、届く~』といい『朝凪~』といい『こんそめ!』といい、やはり和傘は格別。……そういえば、ひなき氏が和傘キャラを演じているという『ヒメと魔神と恋するたましぃ』は未プレイだった。もちろん洋傘キャラもこれはこれでとても良いものである(『はぴねす!』『~サクラメント』等)。


  来月にかけての新作雑感。PULLTOP新ブランドの新作、主人公を明示的に「大学生」にしているところはちょっと珍しいかも。onomatope*の新作も、(前作は買い逃したけど)デビュー作がわりと好印象だったのを思い出しつつ、買っておきたい。
  こういうレハーレム同居ものに活路を見出そうとしているブランドが近年目立ってきているように感じる。1)性描写に比較的大きな比重を与えつつ、2)伝統的なダーク系のそれではなく、3)特定の「属性」嗜好に過度に縛られない、4)ミドルプライス~フルプライス規模の作品が、いくつも発売されるようになっている傾向について、私はかなり好意的に見ている。ヒロイン別分岐を墨守する純愛系スタイルでもなく、蹂躙表現の過激さ(とその後ろめたい背徳感)に価値を置くダーク系でもない、あっけらかんとした性的放縦の世界を展開する第三の道は、これまでは主にNEXTON(SCORE)、かぐやBY、XERO系列(めろめろキュート、c:drive)などが継続的に制作している程度で、全体としてはそれほど大きな潮流になってはいなかったと思う。たとえばselenはその方向性の先鞭をつけはしただろうが、自身は中途半端なままだった。SkyFishはまた別の伝統に棹差しているし、UNiSONSHIFTも違う。May-Be Softの一連のバカゲーはどうだろうか? いずれにせよそれは、作品コンセプトの多様性に対する市場の――つまりユーザーの――キャパシティが広がったという意味でも好ましいことだと思う。私が意識するようになったのは2011年発売の一連の作品(『妹ぱらだいす!』、『アネカノ』、『おねガン!』[中価格]、『雨芳恋歌』、『らぶ2Quad』あたり)で、その頃から純愛系ブランドや新規ブランドの参入がまとまって生じているように見受けられる。『Chuして~』『てにおはっ!』『つぼい君~』あたりはプレイした人々の間での評価も高いようだし(――ただし『BUNNYBLACK2』の主人公は箍が外れすぎだと感じたけど)。

  ……こう考えてはみたものの、タグやPOVを手掛かりにEGScapeを漁ってみると、この流行はここ数年に限ったことではないのかもしれない。以前から、このカテゴリーに該当するようなタイトルは毎年いくつも発売されてきているようだし。MBS-Truth、ZERO、せ・き・ら・ら、マリン、Alicesoft、RUNE/CAGE、TechArts系列、CLOCKUP、等々、振り返ってみればけっして無視できない規模で存在してきたのだと言うべきだろう。しかし、だとしたら、近年特徴的だと私が感じたのは何故だろうか、あるいは、どういう点からそう感じたのだろうか。「嫁」ものや同居ものが増えているという印象から、過剰に意識させられたのかもしれない。特に『妹ぱら』は、私個人のゲーマーキャリアの中では非常に新鮮に感じられた。また、純愛系の萌えキャラクター文法に素直に即しながらハーレム的性表現へ転轍しているという点は、やはり特徴的な傾向であるように思われる。あるいは、BISHOPやWaffleのようにダーク系の伝統を持ちつつ萌え系を視野に入れるようになってきたブランドの存在も、一つの流れとして存在するだろう。


  『彼女×彼女×彼女 ~三姉妹とのドキドキ共同生活~』(2008)のタイトルにどこか引っかかるものを感じていたけど、ようやく気付いた。『さくらリラクゼーション ~四姉妹とのラブラブ同居性活~』(2005)だ。後者は未プレイだが。



  2012年11月23日(金)
  あのシリーズもののベッドシーンの描き方とか売れ行きの話とかはどうでもいいんだけど、『黄雷』予約特典の「男の子用」「女の子用」には心の底からの不快感をおぼえました。その区分、その発想、そしてその区分をよりにもよってアダルトゲームに持ち込んできたこと、その全てが。まだ自分の中で気持ちの整理が出来ていないが、あのブランドのことが本気で――全面的絶対的徹底的に――嫌いになってしまったかもしれない。


  最近は主にコンシューマゲームをプレイしているせいで肩が凝っている。PCゲームだったら基本的にマウスのみなので(ただしキーボードでショートカットキーも使う場合があるが)せいぜい右手の人差指を酷使するだけだし、アーケードなら全身をリラックスさせてスティックを握れるのだけど、手持ちコントローラーはついつい両肩に力が入ってしまう。もしかしたら、握力や腕全体の筋力が乏しいせいなのかもしれない。
  身近なインターフェイスで自分の体に合わないものというと、ヘッドホンに関してもなかなか良いものに出会えずにいる。頭を動かしてもずり落ちないような形状、負担にならない軽さ、強すぎない側圧、そしてもちろんゲーム音声を心地よく聴けるような音質、これらの条件をうまく満たしてくれるものが見つからない。どうやら私は頭のサイズが小さめなようで、ヘッドホンがうまくフィットしないのはそのせいもあるかもしれないが、残念ながらヘッドホンで「Sサイズ」というのは聞いたことが無い。


  [tw: 270487677118332930 ]……相変わらずひどいなあ。「ゲームから」「感動や萌えが」失われたのではなくて、「この発言者の感性から」「柔軟性と瑞々しさが」失われただけじゃないのか。
  まず第一に、現代の動いて喋るAVG表現に感動し萌えているユーザーが無数に存在することは否定しようが無いし、そして過去の(または過去の作品についての)感動や萌えが現代のものより勝っていると主張しうる根拠はどこにも無い。まして、その変化の中に「喪失」を読みだそうとする姿勢の恣意性と安易さと失礼さと見当違いぶりは、まったくもって度し難い。
  そしてまた、この発言は過去の事実に関する言明としてもきわめて疑わしい。歴史的に見て、「ただ突っ立ってるだけ」の立ち絵とヴォイスレスのテキストが深みのある萌えを提供していたと述べうるような状況(または作品群)が存在したのは、ごく限られた範囲内のことだ――それが曲がりなりにも成立していたのは、90年代後半の(あえて言えば過渡期的な)ほんのわずかな瞬間だった筈だ。そして、その状況下で成立した「感動」や「萌え」がはたしてその状況に特有のものであったか、さらにはそれらの成立がはたしてその表現スタイルに起因するものであるかどうかは、自明ではない(――昔の作品の中に感じ取られた萌えは、あくまで「その絵が良かったから」であって「その絵が動かなかったから」ではないだろうし、同様に、得られた感動は「そのテキストが良かったから」であって「テキストが音声によって邪魔されていなかったから」ではないだろう)。はっきり言えばそれは、過去を美化する粉飾的捏造であるように思える。その前後の投稿を見ても、どの作品にどのような素晴らしい萌えがあったという具体的言及もまったく出てきていないし。
  さらに、当然ながら、「ただ突っ立ってるだけ」だと述べてしまうその認識の浅薄さ――もちろんこれが修辞的低減である側面を考慮しても――も、もはや噴飯ものと言っていいだろう。典型例として想起されるであろう『KANON』の大ぶりな立ち絵表示にしても、あれは無頓着な立ち絵貼り付けではなくおそらく十分に意識的な――挑戦的とすら感じられる――画面設計の所産だろう。また、立ち絵が棒立ちの単一ポーズ固定であった作品など、ほとんど存在しない。1996年の『痕』にも、何種類ものポーズをとった立ち絵画像が用意されており、そしてそれらはしばしば空間的に配置され動的変化を積極的に示唆していたということは、このブログでもすでに紹介したとおりだ。また、90年代前半までのタイトルでは、『雫』以降「立ち絵+背景」規格が標準化される以前の作品群のキャラクター画像は、けっして棒立ち立ち絵ではなく、むしろしばしばその都度キャラクターの性格を象徴するようにデザインされたポージングを伴っていた(――SLG作品や顔窓表現に、特に顕著に見て取れる)。それらが、単なる無思慮ではなくその都度意識的な設計の上に成り立ってきたことを、無視するのか、それとも、プレイしていてこんなことも見えていなかったのか。
  音声表現の意義をまったく理解できていないそのセンスの悪さについては、もはや向けるべき言葉も無い。そもそも、ヴォイスが付くことによって「感動的なBGM」が失われるのだとするくだりは、どういう思考によって双方の間にそのような因果関係を見出しているのか、まるで理解できない。そして、台詞音声は1997~1998年頃にはすでにいくつものタイトルで実行されていた(『Piaキャロ2』しかり『とらハ』しかり)。
  このように振り返ってみると、「(立ち絵スクリプト演出と豊かな声優芝居によって感動や萌えが形作られている現代AVGと、なぜか正確に対置されて定式化されるような、)棒立ちの正面立ち絵と音声無しのテキストのみによって深い感動や大きな萌えが提供されていた」という歴史的事実の言明は、そもそもそれは実在しなかったのではないか(あるいは、それに該当する作品があるとしても、けっして一般化されるようなものではなかったのではないか)と考えざるを得ない。この発言に対して向けられるいくつかの政治的嫌疑――「最新技術についていけていない老人の反動的な苦労自慢とどこが異なるというのか」「過去の称揚が、貧しさへの開き直りという論法――電脳紙芝居論との最悪の形での結託――を採ることによって、発言者自身が過去の優れた作品の価値を貶めているのではないか」「現代AVGのダイナミックな表現を批判するための、為にする主張ではないか」「通俗的で不合理な"技術嫌悪"イデオロギーではないのか」――を別としても、このように事実に関する多くの嫌疑を免れない、非常にいかがわしい発言だと言うべきだろう。
  この「俺が」「俺だけが」君に対しては以前(2012/10/17雑記)にもツッコミを入れた憶えがあり、こういう発言に際してこそ彼は「みんな」という誇張された主語によってではなく「"俺にとっては"こうだったのだ」と誠実に述べるべきだったと思うが、そういう語法上の些末な誤魔化しどころでなく信じがたい点が多すぎる。現代のゲームについても過去のゲームについてもろくなことを言えそうにないという意味で底の底が見えているので、もはや三度目の言及(批判)は必要無かろう。

  こうした批判は、まったく不快なばかりであって気が進まないことだが、必要なことだと考えている。コミュニティの内部批判は総じて実効性をあまり信用していないが、分野に関わる者どうし、事実をよく知る者どうしの間でこそ、まず相互批判を提起し議論を改善していかなければ、何も変わらないまま偏見と謬見ばかりが蔓延していくだろう。90年代のタイトルも2012年の作品も楽しんでいる一人としてはこの発言には多大な疑念を持たざるを得ないし、「PCゲーマー」に含まれる一人としてはこのような誤った見解はきちんと批判すべきだと思うし、現代のPCゲームを制作している人々とそれらを楽しんでいる人々のことを考えるとこのような侮辱は看過できないし、PCゲームについて定期的に言葉を発している一人としては「こんな奴(等)と一緒にされたくない」。


  そういえば、同じような手合いが他にもいたなあ。名前をここに記すことすらしたくないが、ソノベ某とかいう、自虐ネタのふりをしつつ(その実自分自身は安全な観察者の地位に退いて)ゲーマーとゲーム制作者をコケにするのが得意な輩が。twを利用していた時、何度かそういう下衆な投稿がRTで回ってきたので憤然としてブロックした憶えがある。ああいうのは大嫌いです(――私がtwを辞めたのは、形式的にはtwの仕様及びインターフェイスに対する不満が閾値を超えたためだが、個別的にはああいった私には容認できない発言が一定割合で自分の周囲に存在し続けることに耐えられなくなったからでもある。結局、衝突するか引きこもるかの間で私はかくのごとく後者を選んだのだが)。


  『痕』の立ち絵演出に関する記事は(その場限りの検討用として)削除したので今は残っていないかと思いきや、削除した筈の画像データが残っていた模様。せっかくなのでリンクしておく(画像)。一連の会話進行とともに立ち絵のサイズ、ポーズ、表情差分、表示位置それぞれの変化によってそのキャラクターのその都度の所作が細やかに表現されているのが見て取れるだろう。



  2012年11月22日(木)
  『英雄*戦姫』で好きなシーンといったら、ポートロイヤル侵攻戦で増援ユニットが出現する瞬間を挙げたい。ただしそれは、どちらかといえば表面上は非常にシンプルでたわいないものではあったのだが。その増援が現れるであろうことはその直前のテキストがあからさまに(通俗的な展開として)示しているためドラマとしてさほど意外性のあるものではないし、登場時に挿入されるテキストも比較的簡素な数行のやりとりのみであっていわゆる「燃える展開」と呼ばれるにはあっさりし過ぎているだろうし、このパートヴォイス作品の中でその一連の台詞は音声を伴っていなかったし、ゲームパート上の増援メカニズムそれ自体もゲーム序盤ですでに使用されていた。しかしながら、戦闘マップ上にその小柄なユニットがふっと現れたその瞬間、言いようのない嬉しさと満ち足りた心地良さ――と、そしてそのキャラクターに対する愛着と――の感興に浸された。この感興を言葉にするのは難しいが、ぎこちなくも説明を試みるなら、それは「増援」という物語上の事実が現象として視覚化されていることもさりながら、それのみならず、このシミュレーションゲームの「システム」(を枠組づけ具体化しているメカニズム)の中にその場面の特定の物語的要素と明確なキャラクター性を担った存在が入ってきたこと、そしてシステムとドラマがその特定の現れのために交錯し合流し正確に歩調を合わせたそのユニゾンの、その心地良さであったのだろうかと思う――そしてそこにはもちろん、ユニットを登場させる際のその手つき、大袈裟でもなく粗野でもなくそのユニットをフィールドにそっと置いたその見せ方、つまり狭義の「演出」も、その印象形成に与って力あることは疑いないし、そしてまた、ユーザーが単なる傍観者としてではなく当事者(プレイヤー)としてその場面に立ち会えたという点も、SLG作品ならではの特別な資質に数えられるだろう。大上段に言うなら、プレイヤーがゲームをドライヴしつつ、同時にゲーム(システム)にドライヴされて、全体として物語の成り立ちと進みゆきのために協働する、つまり「システム」と「物語」と「インタラクティヴィティ」の三者によるその名付けがたき興趣の、ささやかながら美しい調和の瞬間の一つとして、そのシーンは私の中で強く記憶に残っている。
  ……ちょっと大袈裟に書きすぎているのかもしれないが。そのシーンを本作の中の「名場面」として挙げるユーザーがどのくらいいるかは、私にはよく分からないし。普通にプレイしていればかなりの激戦になるであろう難所なので、大抵のユーザーは演出どころではないかもしれない。

  イベントデータも一応出来た。イベント登場頻度を見ると、やはりヒミコが圧倒的に多く(252個。ただしプレイ中は、頻出している印象は無かったが)、そして序盤からの必須仲間キャラ3人(義経142、弁慶115、信長149)、そしてランスロット(93)となる。孫子(78)が意外に多く、そして晴明(72)、忠敬(69)、ナポレオン(68)、呂布(68)、始皇帝(60)と続く。さらに、コロンブス(53)、マルコ(51)、マゼラン(48)、クック(46)、ビリー(46)、三蔵(45)、フビライ(44)、ワイナ(42)、アーサー(41)、アショーカ(41)といった具合。全体でイベント数は1000個以上(!)も存在するので、出番の少ないキャラクターでも大抵は20個程度の登場機会を与えられている。
  ただし、連鎖イベントも多いので個数カウントは厳密なものではないし、ほんの数行のみのイベントや1台詞だけの登場も区別していないので、キャラクターのトータルな存在感を反映する数字ではない。戦闘時台詞などの細かな部分も割愛している。さらに、残念ながら脇筋イベントにはヴォイス無しシーンも多い。


  ページが長くなったので、先月のスポーツ(野球)表現についての小文を単独記事化した。しかし、細かい記事を一々切り出していったらきりが無い。どうしたものか。



  2012年11月21日(水)
  先日の二つの雑記を反省。やはり歴史は専門家か暇人かバカが口にするものであって、安易に手を出すのは拙いということを再認識させられる。とりわけ歴史的評価に踏み込んでしまいかねない場合には尚更。関連のある事例を渉猟し、事実として正確に確定し、適切な仕方で評価することは(他の学問分野の難しさと同様に、そしてそれらとは多少異なったあり方で)たいへん難しく、そして私は十分に訓練された専門家でもなく十分な時間を注ぎ込める暇人でもない。


百機夜行  試しに応援バナーを貼ってみる(※上記リンク先アダルトゲームサイト注意)。

  佐野原画の近代戦RTSが制作されるとは、良い時代になったものです。眼鏡着用のかわしま小将とか、武人なももぞの大佐とか、口元ホクロの伊東サラ准尉とか、キャストとキャラデザを見るだけでも楽しすぎる。



  2012年11月18日(日)
  ※単独記事化した:「瞳孔表現の変化についてのごく私的なメモ

 [ http://openingclosing.blog.fc2.com/blog-entry-171.html ]:ここ数年内でいうと2010年も良い作品にいろいろ出演されていたけど、こうして出演情報を拝見しつつ振り返ってみると2003年の大波氏の活躍ぶりにはほんとうに素晴らしいブリリアンシーがあったのだということに気付かされる。『ブラウン通り』での主演はもちろんのこと、『Ricotte』も名高い作品だし、『うさデリ』『夏神楽』の高音芝居もこの時期に一つのピークを形成していたと思う。なかでも『屍姫と羊と嗤う月』は、序盤は神秘的なシーンから開始しつつ悪友系芝居に移行し、さらに物語中盤以降では――大波氏としては珍しく――暗めの役柄に傾斜するという、かなり複雑な大役を演じきっており、非常に印象深い作品だった。『LJ』での低音年上系演技(リンザ博士)も、前年の『BF』以来のもので、高音年下系芝居の華やかさとはうって変わって迫力と癇の強さを窺わせる凛々しいものだった。



  2012年11月16日(金)
  ※単独記事化した:「ウェイトレスものについての雑感

  窓外に人影ってホラーじゃん(『NAO2』『coμ』)と思ったけど、普通はお隣の幼馴染だよね。そういう正統派の側でまず思い出したのは『秋色恋華』、『マブラヴ』、『Aster』。あとは、えーと、『かみぱに!』『よつのは』とかも。web検索してみたら『涼風のメルト』の遠野そよぎキャラもそうなのか。そういえば『屋根づたいの君へ』もそれっぽいタイトルだけど、声優買いをしてそのまま未プレイで積んであるので中身はいまだに知らないままだった(ごめんなさい)。
  窓の桟を乗り越えてくるキャラクターの図というと、上記『秋色恋華』(幼馴染の教師ヒロイン)の一枚絵と並んで、『とらいあんぐるハート』のそれ――授業開始に滑り込むために、忍者ヒロインがフックロープを使って校舎内に入ってくる姿――が印象深い。


  某氏の発言について、無粋なネタばらしをすると、「お前は生まれた時から誰かに服従しなければならない運命を背負いたいのか?」という台詞は、『LEVEL JUSTICE』のもの……だった筈。悪の組織で怪人を作り出しているマッドサイエンティスト主人公が、同僚から「何故こんな反抗的な怪人を作るのか(=マスターの命令にきちんと服従する生命体の方が好都合ではないのか)」と問い質された時の返答が上の台詞。
  これを私なりのソフトハウスキャラ理解に引き寄せて言うなら、単一の視点乃至意志によって完全に制御されるのではない多数の(無数の)アクターがそれぞれ自由かつ自律的に行動する世界の広さを楽しもう(楽しませよう)とするGM的姿勢があると思われる、という見解を再度述べることになる。上の台詞は非常にネガティヴなものだが、けっして制御されきらず勝手気儘に相互作用していく世界の豊かさを肯定的に受け入れようとする視点は、同社作品に常に通底しているものだとあらためて思う。



  2012年11月13日(火)
  Escu:de作品はどれも好きで、個々のゲームデザインも画面レイアウトもBGMも原画家選択も気に入っているのだけど、メッセージボックスの行間が詰まりすぎている――行間スペースがほとんど無きに等しい――のだけは残念な点。SLG作品ならあまり気にせず読み進められるのだけど、『ヴェルディア幻奏曲』のような純AVGだと、そのテキストに長時間つきあい続けるのに苦労させられる。
  ゲームテキストの可読性配慮は以前からも何度かいろいろな形で言及してきたことだが、例えばageやminoriの無頓着さはこれらのブランドに対する私の評価をはっきりと引き下げているし、あるいは逆に、例えば『夏めろ』のテキストボックスがルーズリーフ風に横穴+罫線を設けていたのは面白いデザインだと思ったし、Leaf(『雫』、1996年)やabogadopowers(『とびでばいん』、2000年)やLW(『白詰草話』、2002年)が早くから表示フォントに気を使っていたのも好意的に見ていた。そして、この観点では、studio e.go!やLiar-softの変わり映えのしない無骨なレイアウトも案外嫌いではなかったりした。『ツナガル☆バングル』のきれいなシアンブルーも、(この色がテキストボックス背景に使われるのは異例のことであろうが)まさに作品の"色"を体現していると感じられたものだし。


  なんかもう、ゲームは確かに今自分の心の中に息づいているんだから実際にプレイしなくてもゲームに満ち足りることができるじゃないか、という気分になったりする。もちろんそれはただの不遜な怠慢なのだけど、プレイしてことのあるゲームのBGMだけを取り出して聴いている時などに、ふとそんな考えに襲われることがある。
  ゲーム開発者の方々ならば、本当にそういう気持ちになることもきっとあるだろう。その一本のタイトルに対して、どのユーザーよりも長く細かく深く関わるのだから。



  2012年11月9日(金)
  最近はむしろゲームをする手が順調に進んでいるのだが、そのぶん、ゲームについての言葉がなかなか出てこない。経験則からしてこういう蓄積と反芻の時期も必要だと分かっているので、別段困ってはいないが。


  個々の作品をどれだけ高く評価しているかとは別に、そして個々の作品にどれだけ愛着があるかも別にして、私個人のPCゲーム経験にとって決定的に重要な作品、あるいは認識の重大な変化を引き起こしてくれた作品というと、……一本に絞ることなど到底出来ないが、あえて言うなら『アトラク=ナクア』(1997年)、『天使のいない12月』(2003年)、『カルタグラ』(2005年)と『いな☆こい』(2006年)、『明日の君と逢うために』(2007年)あたりだろうか。ソフトハウスキャラの一連の作品群からも、狭義の「ゲームシステム」としてだけでなくゲーム作品全体をプレイヤーの参加とともにシステマティックに駆動されていくメカニズムとして捉える構造的-機能的な受け止め方を触発的な仕方で教えられ続けている。
  『天いな』は、ゲーム表現の中で「声」が持つ力を意識させてくれた作品。プレイヤーの眼前で形作られ表出されていくキャラクターたちのその造形の機微も核心も広がりも、その多くの部分が声優の力によって成り立っているということを、それ以前よりもはっきりと理解できるようになった。みる氏、井村屋氏、安玖深氏、鮎川氏、鷹月氏、後野氏は、今でも私の中で特別な位置にある。
  『カルタグラ』と『いな☆こい』は、それぞれ美少女ゲーム作品がいかにして「(審美的)趣味」と「(遊戯的)趣向」を備えることができるかに気付かせてくれた。そんなことには、『魔法少女アイ』の頃――私がプレイしたのは2003年発売の再販セットだった――には気付いていてしかるべきだったが、その差し引き3年乃至4年という時間の長さはそのまま私の愚かさを示している。
  『明日君』は、そこからもう一歩進んで、「AVGは堂々とこのような豊かな視覚的演出のスタイルを採ることができるのだ」ということをようやく実感させてくれた。もちろんそれ以前にも大槍作品(『Quartett!』)やTOMA作品(『AYAKASHI』)や『君望』や『めぐり、ひとひら。』も知っていたのだが、もしかしたら私はそれらの試みを例外と見做し続けまたはトリヴィアルなものとして看過していたかもしれなかった。その意味で、『明日君』のよくこなれたAVG演出空間――それは『アトラク』からage、LW、TM、そして緑茶、light、ういんどみる、ゆずソフトへと連綿と続いてきたアダルトゲームの表現上の重要な実験及び成果を分かち合いまた担っている――をまさにあのタイミングで経験できたのは、貴重だった。
  ……自分の鈍さと愚かさを再確認させられたようで、なんとも恥ずかしい。


  ホラーだったら、rufかDreamsoft/SkyFishあたりの作品をプレイすれば良いと思う。超自然的な力に個人が翻弄されるという意味では、『屍姫と羊と嗤う月』も何故か印象深かったし、『シャルノス』のゲームパートも確かに良かった(――そしてこの意味で、あのゲームパートはなくてはならないものだった)。
  思春期的な重苦しさをストレートに取り上げて展開しようとする作品も、この分野ではなかなか見かけない。とりわけ最近ではあまり見かけなくなった……というのは個人的なプレイ傾向のせいかもしれないが。有名なところではLeafの『雫』『天使のいない12月』、あるいは青山拓也氏の手掛けたいくつかの作品の青臭さ、 あるいはもはや思春期とは呼べない『蒼色輪廻』『Pigeon Blood』『夢幻廻廊』『Maple Colors』の過激さ、こういったものからもユーザーはもちろん多くのものを摂取してきている。



  2012年11月3日(土)
  [ http://softhouse-seal.com/product/074-tomarunners/ ](※アダルトゲームサイト注意
  うわあ……これ、どうしよう? そのネタ自体は食傷していて敬遠したいのだけど、でもしかし、ACTGパートが飯野汐里ヴォイスで「えいっ」とか「やあっ」とか連呼してくれるのであれば、やはり買わずにはいられない(――同じ理由で、安玖深キャラクターのACTG『マジカライド』はとても楽しかった)。Softhouse-seal版メトロクロスみたいな感じでプレイできたらと期待しておこう。


  『英雄*戦姫』のイベント一覧(、兼、登場キャラクターデータ=ヴォイスデータベース)を作成中。この作品の声優起用についていずれまとまったものを書きあらわしてみたいと考えているのだが、イベントの数量自体が多いうえ、パートヴォイス作品であり、しかも個々のキャラクターが地域を問わずイベントに登場してくるので、特定のキャラクターの声を集中的に聴き返すのには手間が掛かる。
  初回プレイ時に井村屋氏の高音系芝居(「アトラス」役)を北見氏の声と聞き違えたままでいてエンドロールでキャストを知った時の衝撃と慚愧と自己嫌悪の記憶は、いまだに尾を引いている。



  2012年10月末日(水)
  ゲームクリエイターBL……ナマモノにもほどがある。



  2012年10月29日(月)
  「ファム・ファタール」と言われてすぐに頭に浮かぶ女性キャラクターはあまりいなかった――あぼぱとblack-cyc、あ、どちらにも「かおるこ」様がいる――し、「男性向け+ストーリーの並列分岐を伴う」というジャンル的特性を考えればM嗜好特化の低価格タイトル以外では難しそうに思えたが、マイルドな形態も含めればそこそこいるのだった。
  個人的には、美遊ブランドのサスペンス作品『Love Letter』のそれが思い出深い。創意溢れる様々な殺害方法を男性主人公の前に披露しつつ、自身は濡れ場の一つも晒さずじまいで物語を閉じた真犯人キャラクター。綾風柳晶氏の迫力ある原画も、所を得た人選だった。
  サスペンスでいえば、ぱれっとの『復讐の女神』も良かった。近未来の学園医療システムの暗部に挑む物語で、序盤から主人公の一手二手先を行って謎解きの障害として立ちはだかり、そして終盤で主人公と手を結ぶことになった場合にも、あくまで利害の一致に基づく協調体制として振る舞い続けたヒロイン。海原エレナ氏の主演する初期の名作の一つ。
  比較的マイルドな例としては、不思議な結界に閉ざされた上流学園の『桜吹雪』も、その舞台設定にもかかわらず様々な形でその趣を其処此処に匂わせている。下劣な手段を使ってまでして主人公をひたすら翻弄するトップヒロイン、排他的でこれまた目的のために手段を選ばない孤高ヒロイン(のその姿勢と内面に主人公は惹かれていく)、そして主人公の社会的地位全体を善意ベースで真綿のように締め付けてくる従姉ヒロイン。このように"ヒロインたちと関わったおかげで不幸になる主人公"というコンセプトとして見ても、とても優れている。日野亘氏もこういうキャラクター造形がお好きらしい。
  『想い出の彼方』『ONE2』『屍姫嗤』の脚本家青山拓也氏も、主人公視点基軸ながら超然的なヒロイン――いずれも青山ゆかり氏が演じている――に対するその特殊な心理的傾斜をしばしば描いてきた。『屍姫嗤』がその類似性をあげつらわれた脚本の『アトラク=ナクア』――ただしこちらはどちらかといえば当の女性キャラクターの心理をクローズアップしている――もあるし、『腐り姫』もこの文脈で言及される価値があるだろう。
  ソフトハウスキャラの企画兼脚本担当の内藤氏も、才色兼備の超人的ヒロインに対する男性主人公の鬱屈まじりの憧憬と執着をしばしば取り上げて、そのぎらついた輝きをシミュレーション空間の中に鮮烈な彩りとして描き込んできた。『真昼に踊る犯罪者』には、自分を裏切った義姉を主人公が過去に殺害しており、しかもそのショックから殺害した事実を自ら忘れ去っていた(かのようにも読める)という描写がある。『Dancing Crazies』にも、孤児だった男性主人公を暗殺者として育て上げた女性キャラクターとの対決がある。『巣作りドラゴン』では、一度は殺されかけたほどの圧倒的な力のある真ヒロインに対して、なおも主人公が敬意と愛情――を表面上は押し隠しつつ――を持ち続けている。同社のそれ以外のいくつかの作品にも、同じような傾向はしばしば見て取れる。
  こうしてみると、私がプレイしてきた作品や私が興味を持っているクリエイター諸氏の仕事の中で、わりと頻繁に――おそらく全体の比率に対してかなり高い頻度で――そういう描写に接してきたのかもしれないし、そしてそれらを好意的に受け止め楽しんできたのだった。ちなみに、聖少女作品は一本もプレイしてないが。
  こういう役を演じるなら、このかなみ氏か海原氏が適任だろう。かわしま氏、涼森氏も良い。


  昨日は脚本家基軸で『星空のメモリア』のヒロイン造形の特徴に言及したが、しかしそれにもかかわらずそれと同時に、FAVORITEは作品のありようがディレクターによって方向付けられていることが比較的分かりやすく見て取れるブランドの一つでもある。同ブランドの作品を続けてプレイしてきている者であれば、とりわけヒロイン造形に関して、いくつかの明確な志向が脈々と連なっているのを感じているだろう。実際、例えば『いろとりどりのセカイ』の登場人物「東峰つかさ」についてスタッフが「『ウィズアニ』のグラニテの生まれ変わり」だと述べている(註)が、プレイヤーはこれを良く感得できる筈だ。
  ただし、ここで考えているのは総体としての「ディレクション」次元である。実際には、ディレクターである個人の意志のみが貫徹されているということではおそらくあり得ず、原画家の嗜好やCGチーフの判断が企画会議の中であるいは個別作業内部で適宜反映されているようである(――こうした制作過程の分担及び協議の様子も、『萌月刊FAVORITE』のインタヴューで明かされている)。そして、そのようなブランドの個性となる特徴は、もちろん脚本家が異なっていても立ち現れてきているのだが、それはただ単にキャラクター設定の類似性からもたらされているのではなく、あるいは原画家が同じであるからというものでもなく、キャスト選定から視覚演出から効果音表現に至るまでのあらゆる側面に亘る全体としての作品作りによって形作られている。
【註】『萌月刊FAVORITE』(コアマガジン、2012年)、21。もちろん、実質的な輪廻転生関係にあるという趣旨ではなく、キャラクターイメージを継承しているという意味であろう。


  "萌え3D"表現の最高の精華は『恋神』OPムービーのそれであると信じて疑わない。いや、もちろんMA@YA氏のTEATIME作品ももちん素晴らしいし、Frontwingも上手くやってくれているが、個人的にはこちらに一票を投じたい。



  2012年10月28日(日)
  特定のキャラクターの人格を不必要なまでに繰り返し貶めたり、財産的価値のある他人の所有物を繰り返し破壊したり、社会常識に照らして致命的と思われるほどの毒舌を繰り返し口にする人物がいたりするといったような、なかひろ氏の脚本に縷々見られる配慮の無さ(状況に対する無頓着さ、キャラクターの扱いに関する情の無さ)は、プレイヤーたちをしばしば苛立たせてきているようである。[一例としてtw: 247042925731659776 ~ 247043562632531968 ~ 247044431595831296 ]
  しかしそれは、原則的に言えば、脚本担当者としていかなる意味でも非難されるべきことではない筈である。例えば落語の中で愚かな人物の言動が周囲の人々の時間を浪費させているとしても、あるいはコントにおいて公然と打擲行為が行われたとしても、それらに対して現実基軸で非難や不快感を向けるのは筋違いであり、そしてAVGという一つの物語形式においてもそれは一応妥当するように思われる。つまり、創作物受容においては、モラルや現実感覚は一旦括弧に入れて接すべきであり、あるいは、創作物の中に現れる事実や行為の「描写」は現実世界と同じ基準で捉えられるべきではなく作品内在的な論理乃至目的とともに構築された架空かつ自立的な像として受け止められるべきである。整理された記譜法の下で抽象的に記述されたクラシックにおける主題労作の音楽的自律性においても、能楽のような舞台芸術の”不自然”な動きや構成についても、そして作中「世界」の広がりと深さをより強く意識させがちな物語的分野においても、我々の実生活を支配する道徳的妥当性や法則的整合性は作品乃至描写の良さや正しさのメルクマールとしては作用しない。そして、『星空のメモリア』『初恋サクラメント』の一見きわめて酷薄な描写の数々も、そのような姿勢の下で読まれることによって、最善の解釈を見出すことになる筈である。すなわち、ここで重視されているのはあくまで”その場の漫才”としての効果とその品質なのであって、カメラ破壊によって生じた財産的損害を気に病んだり幼体ドラゴンの火吹きによって頭部を焼かれた主人公の頭髪がどのようにして復元されたのかを考えたりするのは、基本的には、「EDの後、ヒロインたちが何歳で逝去したか、彼等の子孫たちはどうなったか」「当該作中世界は、もしも現実であれば西暦何年であるか」「当該作中世界において、内閣総理大臣は何者であるか」といった問と同じくらい、当該作品の表現の質にとってはどうでもいいことの筈である。その意味では、氏のアプローチは創作としてきわめて真面目なものであり、そして同時に、氏の手掛けた脚本の品質は非常にサービスの行き届いた優れたものである。そしてとりわけコメディは、そういうもので良く(そうある方が良く)、実際にもAVG分野におけるコメディの名手たちはしばしばそうしている。神格キャラクターの力――主人公たちが直面している困難な状況を解決することすら出来た筈の奇跡の力――を、まったくどうでもいいことのために浪費させた『残暑お見舞い申し上げます』の藤崎竜太しかり。あるいは、授業中に前の座席にいる女子学生の髪を、徹頭徹尾単なる暇潰しのためにハサミで切って遊ぶ主人公を描いた『ONE』の麻枝准しかり(――なかひろ氏がサイトでtactics/key二次創作小説を公開している事実はいかにも示唆的に映る)。
  創作に関する一つの原則的立場として、以上のようなものを述べることができるが、しかしこれは絶対的なものではなく、いくつもの分野乃至作品について十分な説明を提供することに挫折している。そして現代の美少女恋愛AVGも、それに対して嫌疑を向けている(あるいは嫌疑を向ける資格のある)分野の一つであろう。舞台芸術のように全体を「鑑賞する」のでもなく、ペーパーメディアのように絵とテキストをただ「読む」のでもなく、さらにはSLGやSTGのように俯瞰的な把握をするのでもない、この分野に特有の文化的慣習として形成されてきた”主人公に対する特殊な取扱い”が、その嫌疑に理由を提供している。すなわち、1)ヒロインとの恋愛関係に関してプレイヤーを全面的に代行する――と見做すのは名前変更可能主人公の存在からも説明できる――ため他のメディアにおけるよりも強度に”感情移入”的に捉えられがちな「主人公(プレイヤーキャラクター)」であり、2)台本よりも強く小説よりも特権的な仕方で物語進行を引き受ける「語り手」であり、3)そしてそれゆえモノローグを通じて立ち入った内面描写の客体となっている、その存在の扱いである。このような諸要請からして、恋愛AVGの主人公に関してはギャグやドラマのためにその最低限の心理的連続性を放棄してしまうことが一般的には困難であり、そしてなかひろ氏も基本的にはそれを踏み越えてはいない。氏の描く主人公たちがナルシスティックに見えるのは、その冷酷な筆致の中で主人公の心理描写のみがこのような特権的な保護の覆いを掛けられているためであろう。氏のテキストワークはAVGのクリック進行に最適化するようチューニングされた、非常に洗練されたものであるが、しかし一人称主人公の恋愛感情や特定の心理的執着を物語の梃子にするようなAVG形式の作品に際して、ある居心地の悪さをもたらしているのは、このような事情のゆえではないかと思われた。

  ……私が接したのは、上で言及した2作のみ――それと『はっぴぃ☆マーガレット!』にも参加しておられたらしい――だが、そこから受けた印象を言葉にしてみるとするならこういう感じになるだろうか。思考整理のための試し書きとして書いてみたが、この結論にはまだ自分でも納得していない。いずれにせよ、ヒロインを扱うなかひろ氏の手つきの酷薄さには、stoneheads系ライターたち(と呼んでいいのだろうか? 今念頭に置いているのは丸谷氏や木之本氏のことだが)に通底するものを感じている。



  2012年10月27日(土)
  前回の雑記記事では、自分の語彙の乏しさに苦労させられた。スポーツや武術分野は詳しくないので、なんとなく認識している物事について、それを適切に指示する用語を知らないという箇所がたくさんあった。一般的には、物事の認知乃至発想とそれらを指示する言葉の知識はおおむね並行的に獲得されるものなので、あまり苦労することは無いのだけど。今回は、たとえば「投球、打撃、走塁」という三単語すら、自分のボキャブラリーの中から切り出してくるのにずいぶん難儀した。あるいは、"裁定者(審判)を伴った一対一の勝ち抜き式対戦で、棒や竹刀などの得物は使用できるが飛び道具や銃器は使用できず、相手を致命的に傷つけるまでは攻撃しないという暗黙の了解の下、剣道やフェンシングのような特定のスポーツの様式化されたルールには従わずに行われる、比較的自由な『試合』"のことを何と呼んだらいいのだろうか? 下の文章では「対戦試合」とぎこちなく書いたが、ストレートにそれを意味する表現はきっと存在するだろう。
  そういえば『桜花センゴク』……あれは何故、野球に……。『明日の君と逢うために』のソフトボール対決も思い出したので記事に加筆した。実際には「GIF動画"並"」どころではなく、インストールフォルダ内にGIF画像そのものがベタ置きされていた筈だが。


  『おたマ!』もつい買ってしまった。購入理由の大半は、立ち絵それ自体がデフォルメ等身という奇怪なキャラクターで、公式サイトのサンプルに嬌声とおぼしきヴォイスが出ているのが……怖いもの見たさなんだけど、たぶん本物の濡れ場ではなく"そんな声を出してみた場面"なのだろうと予想している。あと、個人的にはポンバ(大阪日本橋)ロケ背景があることを期待している。UNiSONSHIFTの地元でもあることだし。ただし、プレイできるのはいつになるか分からない。


  祝桜ラジオの雰囲気はとても好み。咲氏(創作サークル)、桐谷氏(海老の思い出)、そして今回は桜川氏と、出演者さんたちのウェットな昔語りが、聴いていてとても気持ち良い。咲氏のパーソナリティぶりもとても良くて、トーク部分ではどちらかといえば控えめな対応をされつつ、締めの一言などで機転の利く絶妙の一言を挟んでこられる。


  ラブストーリー系の読み物AVGでは、ゲームの中盤あたりまでプレイヤーが選択肢決定を通じて主人公の行動を(≒物語の行き先を)誘導していくことになるのが通例だが、中盤以降、フラグ処理の趨勢が決まったあたりで、「ああ、また選択肢が出てくるのかな」といった感じの場面で主人公自身が心を決めて――つまりプレイヤーが介在することなくテキスト上で自動的に――、一人のヒロインを選び取るかたちで振る舞ってくれるようになった瞬間は、何故とはなしに嬉しい。あるいは、そういう選択の場面でなくとも、モノローグ等で主人公がヒロインに対する明確な気持ちを表明してくれる場面はとにかく好き。



  2012年10月24日(水)
  野球表現についての文章は、別ページに移した(→「PCゲームにおける運動表現の諸相」)。演出論をスポーツ表現への各論化したものに過ぎず、新しいことはほとんど何も述べていないが、実例紹介として残しておこう。

  物語のうえで最も多く扱われているスポーツは、おそらくテニスである。しばしばヒロインの一枚絵が使用されている(――早期の一例として『こみっくパーティー』)。同様にビーチバレーも好んで取り上げられるスポーツであり、しばしば華やかな一枚絵を伴って描かれる。スイカ割り(をスポーツに数えるとして)も、一枚絵基軸で描写されるのが通例である。弓道部ヒロインも一定数存在し、その弓を構えた凛々しい姿は一枚絵の良き題材となっている。水泳部も多いが、基本的には個人単位でのエクササイズであって、勝敗を決する試合になることは稀である。マラソンは、視覚表現の負担は少ないが、テキストワークに力量が求められる(――その優れた成果として、例えば『この青空に約束を―』『夏めろ』)。『桜吹雪』の剣道対決も、通常の「立ち絵+背景」スタイルのまま敢行されたが、その続編『花鳥風月』は鍔迫り合いの一枚絵を使用した。スクリプト演出による視覚的緻密化の流儀を突き詰めたものとしては、上記『恋色空模様』の騎馬戦シーンが印象深い(――この作品には、野球、騎馬戦の他にもリレー、鬼ごっこ、コンピュータダンスゲーム、刺又とトンファーの模擬戦トレーニング、対戦試合など、様々なスポーツシーンが含まれる)。ミニゲームによるスポーツ表現の例としては『温泉DE卓球』――球が飛んでくる位置に合わせてテンキー入力するもの――などがある。

  カーリング部の話はするな!

  上記のマゼランイベントの引用画像は122ターン目になっているが、一周目プレイ途中のセーブデータから持ってきたものなので早くも遅くもないレベルの筈。


  レトロゲーム風のドットの粗い画像や電子音を使っている作品というと、上記『こんそめ!』、『まじの~』、『朝凪のアクアノーツ』、『シスターコントラスト!』、「あきおの名探偵」の他にどんなのがあったっけ。代表的なのは『朝凪~』の作中作だろう。登場人物たちがプレイする「パルメザンチーズ号殺人事件」は、FC時代を思わせるグラフィック(カットイン1枚)とBGMが用いられている。『こんそめ!』は、上記引用画像を見てのとおりコンフィグ系画像やOPムービーがドットアート的に処理されているし、本編ではいかにもな電子音とともにいろいろなアイテムを入手するアイコンが出る(――ただしあくまでお遊び演出)。『まじの~』は、OPムービーを参照(――木村あやか氏の歌唱も実に楽しげで良い)。「あきお~」は、『はるまで、くるる。』の予約特典だが、わりと堂に入った出来。『シスターコントラスト!』は未プレイだが、ヒロインたちの感情を表すモノクロアイコンが出る演出があるらしい(――「Hオーバードライブシステム」。メーカー公式サイトでも紹介されている)。『痕』の2002年版が、オリジナル版(1996年発売)を模した16色画面でプレイできるモードを実装しているのも、この文脈で言及されてよいかもしれない。ドットアートを使用するSLG作品やActGには、おそらく意図せずしてレトロゲームめいた趣を感じ取らせる瞬間があったりもするが、それはそれとして。――こうして振り返ってみると、まあ、こういうのも、嫌いではない、かもしれない。
  [ http://www.hook-net.jp/sakura/chara/09_els.htm#pc1 ]:そういえばこんなのも……。



  「ダイエットは明日から」と何回仰っているかを考えてはいけない。


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