2013年4月1日月曜日

経過報告14

  今月の目標:新作をプレイしていこう。(2013年4月~)


  2013/04/30(Tue)
  何も考えずに『女装海峡』を予約したけど、私はこれを買うつもりなのか?


  御苑生氏は男性キャラを演じられたことは無いのかな……と探してみたら、『まいんど☆ぱぺっと』のサブキャラ男性役を演じられたことがある模様。また、BLだが『紅色天井艶妖綺譚』の脇役ショタ(?)キャラにも出ているらしい。宝塚がお好き[tw: 283222007036915712 ]だからといってご自身が男役を演じたいと思われるかどうかは別だろうけど、そういう機会があるのはいいことだと思った。
  あ、そうだ、『オト☆プリ』ではいかにも「男役」めいたキャラクター(女性)を演じていらっしゃった。作品コンセプト自体が、女装した可愛い(男性)主人公と男装した凛々しい(女性)ヒロインたちというものだが、服装設定からしてもいかにもそれらしいヒロインたちだった。

  追記:雪組といえばこんなこともありました:[tw: 20617354412 ]
  もちろん、声優(役者)と宝塚は「演じる」という点で相通じるところのある活動なのだし、実際にこういった自主制作企画[ http://blog.goo.ne.jp/moonrainbow ]が行われるくらいには、声優諸氏(特に諸姉)の中にもファンはたくさんいらっしゃるに違いない。野中氏、山崎(和)氏、植田氏のように、演劇を志すきっかけがそれだったという方もいらっしゃるし。


  白衣キャラデータベースを自力で作りあげることは断念しました。


  今月の目標(上記)は、低水準ながらそこそこ達成できた。



  2013/04/29(Mon)
  専用ハードってのは無いんじゃないかなあ。もしもそうしたものが成立したなら、たしかに環境の統一や違法DLの防止に寄与し得るだろうけれど、ユーザー側にはほとんど何のメリットも無いので。ユーザー(消費者)が直接的に便益を見出せない商品が売れるとは思えない。開発環境が統一されたとしても開発コストが大きく低下する(=ソフトの価格が下がる)というわけでもないだろうし、現在大多数を占めるAVGタイトルではバグはあまり問題にならなくなっている(――現状でも、ユーザーはバグに煩わされることがかなり減っているし、注目されがちなのはプログラムのバグではなくスクリプトミスの方だろう)。また、SLG系メーカーはたいてい自前でエンジンから作り上げており、それらがメーカーのノウハウという財産にもなっている。共通ハード化は、そうした個々のメーカーの武器を失わせる可能性があり、ひいては各メーカーの技術力を長期的に失わせてしまう虞もある(※部分的には4/20付雑記にも関係する話)。他方でデメリットも多くて、ハード開発費拠出と実開発をいったい誰がやってくれる(やれる)のかという疑問を措くとしても、環境の固定化は両義的だし、最初にハードを購入しなければならないというのはライトユーザーや将来のユーザーを締め出すことになる。ハード購入という最初のハードルにおいて、他のコンシューマ機購入とじかに競合することになる。結局、メリットは僅少であるわりにデメリットが大きすぎるように思われる。汎用性があり、技術を他分野から摂取でき、ユーザー環境保持のためにメーカー側が特別の支出を行う必要が無く、ユーザーに特別の初期費用を課すことも無いという意味で、比較的小規模で趣味特化した分野のゲームプラットフォームとしてPCはやはり最適なものだろう。
  そういえば「P/ECE」ってどうなったんだろう?

  数年前の私は、「今後アダルトPCゲームでは、3D化(特に背景部分の。cf. 演出論Ⅳ章4節1款βの追記)やムービー使用(先駆的だったのはSkyFish、light、May-Be SOFT。cf. 演出論Ⅲ章3節2款3款)が進展していくだろう」と思っていたが、2013年現在の状況に鑑みるとその予想はほぼ完全に外れていたと言わざるを得ない。3D技術使用はもっと隠微な形で為されるようになったし、鈍重なムービーに頼らずともカットインとスクリプトで多くの表現がローコストに賄えるようになった(――言い換えれば、それはスクリプト技術が発達したということでもあるが)。
  私自身、予言者や風見鶏になりたいわけではない(上記の話も他人の前で公言したことは無かったと思う)が、将来予想に関する私の性能は、かくのごとく、まったく当てにならない。


  "人丸(ひとまる)"式戦車というと、暴力的に巨大で、表面がぐちゃぐちゃねっとりしていて毒々しい色合いで、なぜか触手も生えていて、中には小っちゃくてツリ目でオリエンタルな衣装を纏った少女が搭乗させられているというイメージが……。


  ゲーマー諸氏のブログやtwを見ていると「ああ、この方はこういう方向性のキャラクターがお好きなんだなあ」というのが見て取れる方や、あるいはそういうことを明示的に表明されている方もいらっしゃるけど、ふりかえって私自身の("属性"的)嗜好の傾向はどうなのかと考えてみると……よく分からない。わりとどんなキャラでも好きになるので、見境無いと言われても抗弁しようが無い。たとえば、幼馴染ヒロインでも、ミステリアスな先輩キャラでも、インラインスケートで走り回る元気な後輩キャラでも、あるいはメイドでも、眼鏡キャラでも、小柄な先生キャラでも、ミリオタキャラでも、作業着ヒロインでも、吸血鬼キャラでも、ゴスロリ機械人形でも、家事上手な水神様や天然な狐神様でも、魔族な秘書キャラでも、人魚の血を引く長命キャラでも、小生意気な疫病神キャラでも、陸上部所属の後輩ヒロインでも、駆け出しアイドルな義妹でも、冒険好きな同級生キャラでも、「ツインテールの悪魔」と呼ばれる中華料理屋一人娘でも、わんこなみかんでも、董卓でもアーサー王でも、主人公の隣に住んでいて松永ヴォイス妹のいる年上幼馴染みヒロインでも、なんでもあり。


  こーろころころころころー♪


  【 CG鑑賞モードの諸形態 】
  →単独記事化した:「CG観賞モードの諸形態」。

  実例紹介としてこういうのも大事だとは思うが、今の私の手持ち情報では、しっかりした展望を持つ個別論説記事の水準には届かなかった――中途半端すぎる――ので、暫定的にこの雑記欄で公開。まあ、もしかしたら気分が変わってしれっと単独記事化するかもしれないが
  SHCの鑑賞モード画像は、アダルト画像を避けることができなかったので、残念ながらここでは掲載できない。サムネイル画像ならばよく見えないからいいだろうとか、ボカシやモザイクが入っているからいいだろうといった言い訳はすべきでないだろう。法的にはともかく、道徳的には、そういう意味が認識できる画像であることそれ自体が問題になるのだから。

  上記記事でも上手く書けなかったけど、『ヒメゴト・マスカレイド』のコンセプトとシステムデザインは、言葉にしがたい不思議なものだ。ゲーム全体の枠組は、双六型の桝目移動とユーザーによるハート(ポイント)投入によって個々のイベント発生が制御されるというもので、その基本的発想は調教SLG――このブランド自身が『プリマヴェール』『LLD』『ふぃぎゅ』で度々実行してきたスタイル――にルーツを持つと推測されるが、しかしそのシチュエーションの特異性とゲーム進行制御メカニズムの独自性とによって、一般的に理解される調教SLGとはまったく別もののユニークな作品世界を創出している。これほど猥褻感に溢れる作品の中で、「シーン」回想モードに登録されるアダルトシーンはわずか7個であり、それ以外の大量(255個)のイベントは――見つめ合い、撫で合い、キス、抱きしめ合いだけでなく、実際に性行為に至っているものも含めて(!)――「スキンシップ」コーナーに放り込まれているという構成も、観賞モードを見てあらためてその奇妙さが実感される。

  『ワンダリング・リペア!』も、ヒロインの心理的/身体的状態についての系統立った発展をゲームシステムそれ自体によってコントロールしていくという意味では、この流れの上にあったと見ることもできるのかもしれない……どうなんだろうか? Escu:deのゲームデザインはつくづく底が知れない。

  それにしても上の『はるとま2』画像の「古き良き大講義室」感はすごい。うんざりするほどに。


  FC2ブログの広告は実に鬱陶しいなあ!
  htnのキーワードリンクもずいぶん見苦しいものだが。


  [tw: 328718476929810432 ]:さすがだ、ぼくらの鯖江市!



  2013/04/27(Sat)
  twの話。ハッシュタグ大喜利にかこつけて、失職者や40代女性やインドア派趣味者や苦境社会人その他諸々の弱者(あるいは、好ましくないイメージを押しつけられている集団)をカテゴリー的に一括りにして嘲弄していた連中のことは今でも深く憎悪している。実際にそうした投稿を行っていた――そしてどうやら今でも平気で行っている――無数の人々だけでなく、それらを咎めなかった「周囲の」人々に対しても不信の念を当時抱いたし、今でも持っている。たとえば「○○の一部を××に置き換えると~になる」といった形で広まりつつ上記のような一面的な見方で類型化されたカテゴリーを笑いものにしていた下衆行為に対して、それらをたしなめる発言は、記憶のかぎり当時TL上に一度たりとも見かけなかった。私は一度は言ったが[tw: 96465720363335680 ]、その――「無粋」な――言葉はおそらく非常に弱いものでしかなかった。
  私がtwのログインユーザーであることを辞めた理由、そしてログインユーザーに戻ることがもはやまずあり得ないであろう理由は、部分的にはこうした不正に対する憎悪と結びついている。公平な視点から判断する場合にもそうなるだろうが、そうでなくとも、もしも身近に一人でも、不幸にして稼ぎの道を一時的に失っている知人や、四十代であるところの尊敬に値する先輩や、オタクとしての高みにいらっしゃる方や、不幸にしてあまり恵まれない環境で働いている友人が、ほんの一人でもいるならば、そうした人々を無思慮に嘲った発言者たちを憎むには十分な理由になるというのは理解できるだろう。ひとが現実世界の中で発する言葉は自動的絶対的に現実の特定の事物と対応するわけではないとしても、しかし、ハッシュタグ大喜利でなにかを貶めて笑うために使用される「○○」「××」という言葉を、その語が通常指示する範囲に含まれる現実の人々とはまったく無関係な、単なる「遊び」の言葉だけのものとして受け取ることは、私にはできなかった。


  [tw: 327805084014632961 ]:おおー、すごい本数だ!と驚いたけど、ふと我に帰って自分のデータの未プレイ本数を見返してみたら……えーと、うん、買えばどんどん溜まるよね。プレイしなければ積み上がるものよね、うん。


  『みずいろ』のあれは、世上取り沙汰されている「HDDを初期化」というのは正確ではなかった筈。インストールフォルダのある階層を無条件に全消去してしまうというものであって、もしも「c:」直下にインストールしたものをアンインストールした場合にはcドライブ全体が空っぽになってしまうよねという話だったと記憶している。深刻なバグであることに変わりはないが。このようなバグを持っているのはこの一本だけではなく、他にも複数存在する。



  2013/04/26(Fri)
  やっぱ『とっぱら』いいなあ(再プレイ中)。
  冷淡で酷薄な主人公描写(特に千鶴美イベント)は『星空のメモリア』に通じるところがあるかも。


  今日のお買い物。
  どうせ紙質も今一つなんだし予約特典アイテムに複製色紙なんかべつに要らなi…という思考が、『ご機嫌ナナメ』色紙を目にした瞬間停止しました。いや、こういうのもなかなか良いものですよ、やっぱり、うんうん。
  『あおじる五本パック』は他のロープライスパッケの間に挟んでこっそりレジに持って行きました。あのパッケの毒々しさは、いかに店内といえど剥き出しで持ち歩くのは躊躇われるレベルなので。あ、『蠱惑の刻』って探偵主人公ものだったのか。
  SkyFish新作『GP』のパッケが開封できない……ふぇぇ。べつに『PIGEON BLOOD』(※ユーザーにスリーブ交換を行った珍しい例)のように箱サイズがきついというわけではないのだけど、キャラメル箱型外装の紙が厚めなうえ、表面がきれいにコーティングされていて(そのこと自体はとても良いのだけど)、私の腕力ではベロ部分が開けないという……定規(きれいに開けるための定番アイテム)も今手許に無いし、どうしたものか。
  Lassは今回も広原一族が登場する模様(※マニュアルのキャラ紹介を見て初めて気付いた)。


  【 美少女ゲームで使われる特殊な記号 】
※変換候補の存否は、さしあたりATOK2011に準拠しています。

  「♪」(文字参照"♪"。以下同様)は、「おんぷ」から変換できる。例:『おまたせ!雀バラや♪』。
  「†」("†"または"†")は、「だがー」で変換すれば出る。『恋姫†無双』などいくつか。
  「∽」(文字参照で"∽")は、相似記号なので「そうじ」から変換。『姫∽神1/2』『よう∽ガク』。
  「♥」("♥")は、「はーと」から変換できる。『ALICE♥ぱれーど』『ツナバン♥らぶみくす』など多数。白抜きのハートマーク「♡」の場合は文字参照"♡"になる。
  「×」("×")は、「ばつ」「ぺけ」「かける」等から変換できる。同様の字形の文字は他にもいくつか存在する。『M×S』『彼女×彼女×彼女』など多数。
  「☆」("✫")は、「ほし」でよい。「☆☆☆☆☆☆」など。
  「∞」("∞")は、「むげん」でよい。使用例は『オトミミ∞インフィニティー』くらいか?
  「√」("√")は「るーと」。『ぷりんせすでんじゃあ√2』など。
  「μ」("μ")はギリシア語で、「みゅー」と読む。ブランド名「project-μ」に用いられている。同じく「φ」("Φ")もギリシア語「ファイ」。ブランド名「φage」(ふぁいあーじゅ)。「ω」("ω")は「オメガ」。ブランド名「ωstar」はこれ。「Ω」("Ω")はオメガの大文字(※こちらは電気抵抗の「オーム」としても使われるので、「おーむ」からも変換できる)で、『惑星ΩのQ王子』(読みはおそらく「わくせいおめがのきゅーおうじ」)というタイトルがあったらしい。
  「â」("â")は、「えー」から変換。サーカムフレックス付きa。「âge(アージュ)」。
  『魔物娘たちとの楽園 ~蜘蛛と鳥と◎と~』の「◎」("◎")は、「まる」「にじゅうまる」で。ただし、このタイトルでは「ひとつめ」(=一つ目=単眼キャラ)と読ませている。
  『Hyper→Highspeed→Genius』の「→」("→")は、「やじるし」から変換すればよい。
  『美衣菜△です!』(みいなさんかっけーです!)の「△」("△")は、「さんかく」から変換。
  『>>ふぁみ!!』(ふぁみレス)は、一文字の記号「»」("»")としては「ぎゅめ」と呼ぶ。ただし公式サイトなどでは、半角「>」を二つ重ねた「>>」で表記している。
  『Kasumisan#』(かすみさんしゃーぷ)。シャープ記号は「♯」("♯")だが、公式サイトで使用されている「#」("#")は、キーボードからも入力できる「なんばー」記号になっている。どちらも、「いげた」からの変換も可能。

  記憶の範囲内で思い出してみたけど、他に特殊な記号の使われているタイトルってあっただろうか。こういうのはわざわざ記憶に残すものではないので、きっと遺漏は多い筈。よく目にするのはやはりハートマークだろう。『うち妹』しかり『行殺』しかり。『英雄*戦姫』の「*(または*)」(アステリスク)や『8665^2』の「^」はキーボードでも容易に入力できるし、ローマ数字(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、…)なども大丈夫だろう。むしろ、raiL-softのタイトルに使われているような漢字の方が出しにくいかもしれない(「擾」「峪」など)。安玖深氏の「玖」とかも(――もちろん私は「あぐみ」で「安玖深」を単語登録しています)。データとして扱う際には『@HoneyComing Royal Sweet』のアットマークがそこそこ凶悪。
  なお、EGScape等を迂闊な一文字で検索してしまわないよう注意して下さい。ものによっては全件表示を開始してしまうので。


  そういえば瀬戸口氏の名前が牟田口某から来ているのは自明だと思い込んでいた――阿斗やドン・キホーテをもじって名乗るのと同じような諧謔だと思っていた――けど、ご本人からそうだと明言されたことは無いのかな。


  今日店頭でふと目にしたタイトル、『ケーキ×3! -苺いちえ-』もパッケージアートに人物は描かれていなかった。絵は可愛らしい感じだったが……2002年発売なのか。11年前のタイトルがよくも店頭に出て来ていたものだ(――もちろん中古ではあったが)。


  私がLass作品を買っている理由の一端は、剣技代表の人柄にあったのかもしれない。もちろん個人的な面識があるというわけではなく、氏のtwアカウントをたまに見ることがあるとか、雑誌記事でほんの何度か読んだことがあるという程度にしか存じ上げないが。外連味の強いブランドイメージに反して、ご本人の発言は人柄の誠実さが窺われる率直なもので、おそらくこの好印象が無かったらきっと私は安易にもLassを軽侮してしまっていたと思う。そういう意味でも剣技氏には感謝している(――感謝するもう一つの理由は、もちろん、優れた作品群のプロデューサーであるという点で)。
  同じように、ただし対照的に、スタッフの個人的イメージがブランドイメージにも反映されているのは、たとえば倨傲な口ぶりと被害者ぶった姿勢でtw上のユーザーに絡んでくる×××な広報のいるブランドMとか。私もtwを利用していた当時は『eden*』をくさしたりしていたけど、あれに絡まれずに済んだのは幸運だったかも。居酒屋対談の2ブランドに対しても、いまだに幾分のわだかまりが拭い去れずにいる。亜佐美氏の稚気溢れるビッグマウス()には、苦笑しながらもなんとなく付き合ってしまっているが。Escu:deが毎作スタッフコメントコーナーを設けている(社長の「て☆れ☆ら」氏や水鼠氏のコメントも読める)のもとても嬉しい。00年代初頭まではスタッフコメントを入れているタイトルもいろいろあったけど、最近はほとんど見かけない(――キャラメルBOXやLeafとか)。
  マスコットキャラを立てて喋らせるというのが無難なのかな。


  同じ品物をダブり買いしていたのに気付いた時は、『サイコ』顔になって声無き悲鳴をあげるしかない。今回のはゲームの話ではないけれど(――PCゲームでは、意図せざるダブりをしたことはまだ無い。意識的にあるいはやむなくそうなったことはあるが)。



  2013/04/25(Thu)
  バカゲーで(声は出さずに)大笑いすることはあっても、ゲームをプレイしている最中に「泣く」という情動を持つことは基本的には無い。しかし、長大なSLG作品のラスボス戦のBGMの中に、はるか何十時間も前の序盤進行の節目に一度聴いたきりの主題歌のフレーズが、明確にそれと分かる形を維持しつつしかしその開放的で楽天的だったメロディが今度はその言葉(歌詞)を手放しながら悲壮さと勇壮さを綯い交ぜにまといつつ回帰してきた時などは、おもわず視界がにじみそうになるくらいぐっと来てしまうのだった。そして、私にとっては音楽経験(ここではBGMの経験)とはそういうものでありSLGの経験(その一定の長さを伴った参加的活動の全体)とはそういうものだ、ということでもある(――余談ながら、音楽単体についても上記のような個人的嗜好はあって、例えば多楽章形式の楽曲の中でも変奏曲形式の楽章はしばしば偏愛の対象になってしまう。最終楽章であれば尚更。ずいぶん単純な反応だと自分でも思うが)。
  「雪さんの胸の中で泣き崩れたらきっと気持ち良いんだろうなー」とかいったことを想像しかけたことは、いや、まぁ、一度くらいは無くも無いのですけれども、うん。

  しかし朱門氏の新作LNのタイトルを目にした時はやはり声を出して笑ってしまった。キャッチコピーにいわく十二の星座に選ばれし魔女たちの戦いが始まる――!!だとか……またそんなのかよ!



  2013/04/24(Wed)
  リンク:木村あやかさん 出演情報(<トップページ:[ http://ho2ch.vs.land.to/seiyu.html ])
  こんなサイトがあるなんて知らなかった……。自分の不明を恥じるしかない。

  上記の件で今回あらためて驚かされたけど、声優ファンな方々の熱意には、常々、頭が下がる思いでいます。情報収集の速度と精度と幅広さ、そしてそれらを端正なレイアウトで迅速にweb公開しアーカイヴ化していく知性と意欲と献身と公平性、そしてもちろん、よく鍛えられた耳。


  今日のメモ: 荒野のゲーム。
  砂漠やステップ、あるいは遠未来や「核戦争後の世界」のような、いわば非文明化された(そのようなものを表すためにそう特徴づけられがちな)ロケーションが主要な舞台になっているゲームというと、『朱』『ジャンゴ』『RGHL』『Vagrants』あたりだろうか。『Palmyra』(※未プレイ)もたしかそうだったし、『Sultan』もそのタイトルどおりアラブっぽい世界の話だった筈。『ANGEL BULLET』も西部劇だったか。『SEVEN-BRIDGE』『ヴァルーシア』も中央アジアやアラビア風文化圏が舞台に含まれている(※後者は未プレイ)。『蠅声の王』もこの関連で言及してよいだろうか。これら以外にも、砂漠ステージや砂漠マップを含むSLG作品がいくつも存在するが、そちらは省略(――『鬼畜王』『姫狩り』『メギド』等々)。かなり尖ったシチュエーションになってしまうので扱いづらいと思われるが、しかしダーク系低価格タイトルだったら案外企画を立てやすかったりしないだろうか。なお、文字通りの荒野ではないが「荒廃した世界」や「ある地域がうち捨てられた世界」といったSF的世界設定を持つタイトルもある。『しすたぁエンジェル』『はるとま』『MERI+DIA』などには廃墟市街の背景CGや水没市街地を映したイベントCGがあり、たいへん趣深い。
  間接的に関連する意見交換の記録として:cf. [ twilog.org/cactus4554/date-110516 ]。
  検索語「砂漠」でgetchuを調べてみると、該当するタイトルは他にもあるらしい。

  "RGHL"の略記がどのタイトルのことなのか分かるだろうかと気になってggってみたら、公式サイトのurlでうまく引っかかってくれるようで一安心(――とりあえず私の環境では検索トップになった)。



  2013/04/23(Tue)
  「みんな違って、みんないい」という――それ自体としてはあまり好きでもないが――フレーズは近年のHOOKSOFTキャスティングのためにあると思っている。一作毎に出演声優の顔触れが完全に刷新されているので新鮮味があるし、しかも純愛系で耳にする機会の少ない役者さんがかなり大胆に起用されているのも刺激的。松永氏起用とかは英断だったと思うし! ここ6年(フルプライス6本)の中で、ヒロイン級で複数回起用されたのは桜川氏だけの筈(『HC』『SN』でヒロイン、『FL』でサブキャラ)……いや、星咲氏もいらしたか(『FL』と『LQ』)。このブランドの作品はそんなに忠実にプレイしてきたわけでもないので、偉そうなことを言える立場ではないのだけど。


  病状が進行すると、閉じた目に「白黒白」のハイライトが掛かっている絵がそう見えるにとどまらず、ハイライトが中央に置かれている「黒白黒」のパターンですら白黒反転の瞳孔/白目描写として解釈できるようになり(今ここ。黒白反転瞳孔表現は通常「狂気」を示すコードとして通用しているので、そう見ると絵面がいよいよ大変なことになる)、そして最終的には任意のハイライトがすべて薄目に見えるようになる……のだろうか。


  下記urlはアダルトゲーム画像につき注意。
  [ http://www.pil-codepink.jp/stone/html/nukiani2/02f.html ]:右目の側に眼鏡レンズの屈折表現らしきものが見て取れるところとか、同じく[ 02h.html ]では眼鏡が独立パーツとしてアニメーションして立体感を表現しているところとかに感動すべきではなかろうか。


  失礼ながらこれまでちゃんと視野に入れていなかったのだけど、『なつくも~』のキャストがこう来たか……くっ、鎮まれ、俺の食指……!(なんかかっこわるい)



  2013/04/21(Sun)
  新聞部、写真部、報道部といった部に所属するジャーナリスト的キャラクターは、その詮索的な行動によって主人公を(そしてプレイヤーを)不快がらせる傾向があるというのはそれなりに当てはまるものも多いのだろうが、しかし私が思い出したのは『アルフレッド学園』の大波ヴォイスの報道部員キャラとか『てとて~』のくるっくーさんとか『水平線まで~』の成瀬ヴォイスのキャラ――ただし本編では放送音声のみで、姿は見せなかった(※FDで初めてプレイヤーの眼前に登場した、らしい。そちらは未プレイ)――とか『SEVEN-BRIDGE』の青山ヴォイスの新聞社員な眼鏡っ娘さんとかだったので、別段マイナスイメージは持っていなかった。あと、『痕』の女性誌ライターの相田さんとか。『ねがぽじ』の放送部室の漫才シーンもなんだか面白かった。
  そういえば実生活上では、高校時代は新聞部に腰掛けしつつ写真部室に入り浸っていたりしたのだった。当時も今もジャーナリズムそれ自体にはまるっきり興味が無いが。部活のことを思うと昔のことをいろいろ思い返してしまうのは、当時はかなりいい加減にふらふらしているだけのつもりだったにもかかわらず実際にはあの環境とあの交友が現在に至る自分の価値観形成に対して少なからず影響していたということに気付かされたからでもある。


  桜井氏のテキストは視覚的な韻律感に注意を払っていて、例えば行毎の文字数をコントロールして平仄を合わせるようにもしており、そうした処理の分かりやすさも含めて、物語として読んでいる最中は、まぁ、面白いのだけど、ただしそれが音声としてのリズムを受け入れていない生硬なものであることをひとたび意識してしまうと、時として無頓着にすら思えるほどのそのテキストの「音への届かなさ」が非常に苛立たしいものに感じられてしまう時がある。これが例えば日野氏であれば、クリックによるテキスト更新を念頭に置いたリズミックなテキストを展開してみせているのだが、桜井氏のスタイルはそれとは異なり、しばしば一画面内(クリックによって区切られた単一パラグラフ内)に複数行のテキストを同時に表示することによってその構成感を視覚的に提示しようとしており、それはそれで視覚的に明快ではあるものの、日野氏のそれと比べて非常に静的な、あるいはAVGに通常存在する運動性が拒絶されており作為ばかりが目立つという印象を与えるものになっている。ダッシュ「――」の多用も、あまり上品ではない。
  この方の手掛けたタイトルをプレイしていると、その手触りとして感じられるある"ぎこちなさ"の中から、「この脚本家はAVGを――その枠組と諸前提を――まったく受け入れていない、あるいはその意義をまったく理解していないのではないか」という不安感がしばしば湧き起こってくる。その不安感とそこから発する再考は、それ自体としては、ユーザーにとって十分意味のあるものではあるが。



  2013/04/20(Sat)
  ここ数年のアダルトゲームでは、男性向け一人用の、筒状(?)をしていて日常会話で言及することの憚られる類のそういう物が、男女間関係の中で小道具として取り上げられることが増えているように思われる。私の見聞の範囲では2008年の『片恋いの月 えくすとら』――純愛系のFD作品――で初めて目にした憶えがあり、そして2010年頃からそうした描写が散見されるようになった。実際に手に触れたことも無いのでよく分からないが、使用経験のある男性にとっては、現実の身近で直接的な身体的刺激につながっている小道具として、その感覚的刺激のイメージが(女性身体に接する際の諸感覚を描写するのと同じくらい?)喚起されやすいものなのだろうか。そして、そうした描写が増えているというのが事実であるならば、それはいったいどのような機縁からもたらされているのだろうか。謎めいて見える傾向だが、しかし、これまで長きに亘ってこの分野のベッドシーン表現――とりわけそのテキスト表現――がしばしば即物的かつ局所的な触覚描写に終始してきたことを思えば、そしてそのような機械的描写の(あえて言うが)退屈さがこれまでユーザーからほとんど非難を受けてこなかったことを思えば、もしかしたらこの種のグッズを使用する描写は、アダルトシーンに関して求められている目的に合致した好適なアイテムなのかもしれない。
  ……思考の結果としてこんな結論に辿り着いてしまうと我ながら鼻白む思いがする。それにしても、アダルトゲームにおける性描写のこの多数派的スタイルははたしてユーザー(および制作者たち)によって本当に歓迎されているだろうかという疑念は、ずっと私の中にわだかまっている。さすがに誰に尋ねることもできない種類の話だが。男性局部が受け取る刺激の確認的記述ばかりを、味気なくも執拗に繰り返すアダルトシーン描写は、それを細かく寸断するヒロイン嬌声のほとんど人工的と言ってよいほどの型通りの台詞群の退屈さとともに、私にはいよいよその価値が見出せない部分になりつつある。申し訳ないのだけど。
  そういえば、『エルフ大人の缶詰』とか、ILLUSIONかどこかのタイトルには、ゲーム製品版パッケージにそういうグッズを同梱しているのもあった憶えが。えーと、どこの作品だっけ? 『CROSS DAYS』とかがそういう器具との連動機能を設けていたのは憶えているけど。
  追記:『カスタムメイド3D』(KISS、2013)など、その種の同梱商品は複数存在するようだ。


  [tw: 324628844449505282 , 324639690126921728 , 324640505860329473 ]
  なるほど……ゲームウィンドウを最前面表示(+適宜縮小)してオートモードで流しプレイするというのは、現在通用しているAVGエンジン群ではほとんど顧みられていない(そのような仕様が提供されていない)遊び方だが、映像の「ながら」視聴のように「ながら」プレイを追求するならばこういう形になるのか。SLGではあり得ない遊び方だが、読み物AVGでは、しかも例えば『ひめしょ!』のように地の文が切り詰められつつ主人公ヴォイスも付いているタイトルであれば、一つの楽しみ方としてアリなのかもしれない。
  私自身は、頭を使う仕事の最中に「人の声」が聞こえてくると集中が乱されるので、「ながら」鑑賞に対する嫌悪を別としても、こういう流しプレイは到底真似できないが。自分の中から適切な言葉を、正確なロジックを、意味のある文章を生み出して形成していかねばならない作業は、慎重を極めた熟慮と言葉に対する鋭敏さとあらんかぎりの記憶の検索が要求されるので、そこでは他人の言葉は夾雑物でしかない。器楽曲であれば、「ながら」聴きでも響きとリズムのみを追って行ければよいので邪魔にはならないのだが。
  ゲームであれ映像作品であれ音楽であれ、「ながら」視聴や倍速視聴だけで観た気になって適当なことを吹かす連中は即刻そして永久に口を閉ざせと思いますが。


  現在のアダルトPCゲームについて考えると、オンライン自動更新やバックグラウンドDLを利用したシステムは、想定されるメリットの小ささに比して懸念されるデメリットが大きく、個人的にはあまり好意的に見られない。たしかに、特に(体験版での)DL負荷分散、柔軟なコンテンツ追加、修正パッチやサポート、ユーザーデータ収集、不正ユーザーチェックといった効用はあるだろう(――ここで私が取り上げているテーマとはいささか論点を異にするが、retouchの中の方が描く展望は非常に正確かつ的確であると思われる:[tw: 324932458011308032 , 324933140550397955 , 324935063961731074 , 324936046410338304 , 324938677807620096 ])。しかし、配信インフラ未整備や接続安定性といった周辺的要因の問題――実際には、システム運用上けっして瑣末な問題ではないが――を脇に置くとしても、オンライン認証一般につきものの問題は、小規模企業が大半のアダルトゲームメーカーではよりいっそう拡大される(長期的なプレイ保障が失われる懸念は、e.go!末期の一連のソフトで現実のものになった)し、メーカーによる情報収集に対する不信も無視できるレベルではない(いくつかの醜聞にもかかわらず、実際にはゲームメーカーの一般的なコンプライアンス水準はけっして低くはないかもしれないとしても)。アップデートについては、近年では製品版に致命的なバグが含まれることは(経験上)ほとんど無くなっているし、バグフィックス以外の重要なアップデートを繰り返しおこなうブランドはEscu:deとalicesoftくらいのものであり、一般的にはこまめな自動更新の必要性があるとは考えにくい(――最新のヴァージョンを必ずしも好まず、むしろ特定のヴァージョンに留まることのメリットを見出すユーザーは、このアダルトゲーム分野にも存在する。SLG作品では、アップデートによってユニットの成長パターンやイベント発生条件が変更されることもあるため)。また、AVG作品でもアップデートによってセーブデータ互換性が失われるケースはあり、ユーザーが自身の経験の記録が無に帰せられてしまう危険を高める。当然ながら、期間限定DLもさらに横行するようになるだろう(例:PULLTOP)。「気が向いたときだけ連載する同人ソフトとか、なんだか全部作らなくても公開できていいし」という(想定され得る)状況に至っては、ユーザーサイドとしてはもはや悪夢に等しい。
  趣味の活動に属するPCゲームは、しばしばごく短期間(場合によってはほんの1~2日)のうちに集中的にプレイされ、その枠組及び内容は実務的アプリケーションとは異なって長期的かつ反復的な仕様変更を考慮する必要に乏しく、むしろユーザー個人が有する環境の中で安定動作と再現性(とりわけ当該ユーザーのパーソナルな記録であるセーブデータについて)を確保することの必要性が大きい。
  しかし、体験版の読み込みデータをバックグラウンドDL化するというのは、さしあたり有効な対処と言えるかもしれない。体験版はあくまで試供品だという建前があるし、近年のヘヴィーなGB体験版がユーザーを遠ざけているという(いかにもありそうな)可能性に対する対処にもなるし、体験版であればユーザーの環境で確認されたバグレポートをフィードバックすることも意味を持ち得る。



  2013/04/18(Thu)
  ……はっ! 「CV:みる」のggl検索結果をうっとりしつつだらだら眺めていたら随分な時間を過ごしてしまった! おそるべし。


  オペラの受け止め方が、そして楽しみ方が、ようやく分かってきた。「ああ、こういう聴き方をすればいいんだ、こういう聴き方をしてもいいんだ」と。そして「歌を聴く」というのがどういうことなのかについても、ちょっとだけ理解が深まったと思う。「理解」というと口はばったいが、このスタイルの音楽を聴く時の感性的意識的心理的知的な姿勢の取り方が、勘としてなんとなく身についたという感じ。そして、そういう感性をもってあらためて聴くと、歌と、そして歌と器楽との間の調和と絡み合いの一瞬一瞬が、……、えーと、今の私にはその妙趣を言葉で表す能力が無い。
  この感性的姿勢に手が届くようになったのは、もしかしたら、実際の観劇体験や映像ディスク視聴を経由してではなく、AVG作品のオートモード鑑賞体験をきっかけとしていたのかもしれない(cf. 2013/2/28付雑記)。


  "ヴァッサー・グラール"はドイツ語:Wasser(水)-gral(聖杯)でいいのかな。戦水競技の大会トロフィーといった意味合いで。
  原画陣はたいへん強力なカードを三枚揃えているわりにサンプル画像がどれも泥臭く垢抜けないのは何故だろうか。彩色面では、近作の『あかときっ!』は三人原画をCG側の品質管理がうまくまとめていた(背景画像も物凄い出来だった)し、『高天』もサンプルCGは光源まわりのコントロールなどが良い感じに見受けられた(※ごめん、未プレイ)し、『ヒメゴト』も本当に素晴らしいクオリティだったのだが、今回はどうも「艶が乏しい」という印象を受ける。アイシャドーの重たさと、主要キャラの頭髪が微妙に色褪せたようなカラーリングである点、それから頭髪に「天使の輪」の光沢表現の代わりに不可解な水玉模様が付着しているのが原因だろうか。視覚表現が重要になるであろう作品コンセプトなのだから、思い切って派手な色調の頭髪にしても良かったのではなかろうか。しかし、犬洞氏原画を制御しきって、みけおう氏原画とも相性の良かったEscu:deグラフィックなら、〆鯖氏原画にもうまく合わせられる筈だし、光姫氏原画に十分慣れているのであれば、ここのか氏の原画にも合わせやすいのではないかと思う。実際に本編の画面全体の中で見れば十分満足できるものになっているであろうと期待している。



  2013/04/17(Wed)
  趣味に仕事は持ち込まない、これ大事。(ここでも守らなきゃね……)


  好きなキャラクターとかお気に入りのキャラクターって、プレイする前に決まり得るものなのだろうか。製品版発売前人気投票の例に言及するまでもなく、本編をプレイする前にそういった「お気に入り」の判断を(暫定的なものとしてであれ)行っているユーザーは案外多いようだ。私自身は、そういう事前判断はほとんど行っていなかった――そういうつもりだった、あるいはそういう発想を持ち合わせていなかった――が、考えてみればそういうのもありだろうと思える。例えばAVG作品について考えると、本編をプレイすればこの現実世界の中で生起するそのキャラクターのほぼ全てを経験することができる(と言うことが一応可能だ)が、そこに至る以前の段階でも、たとえば体験版をプレイするだけでも、あるいはキャラデザ(立ち絵サンプル)とキャスト(音声サンプル)を垣間見るだけでも、それどころかティザーサイトで立ち絵を瞥見しただけでも、つまりそういうグラデーションのどの段階であってもそれは一つの特有の感性的経験となりうるのだし、それが受け手の中になんらかの感情的反応を形作ることは当然あり得るし、そしてそれは本編をプレイしてその印象が変化したとしても遡って偽物だったということになるわけではない。実在の個人に対してだって、同じことは生じる。詠まれた和歌一首のみでまだ見も知らぬ人物に惚れるというのと同じようなことは、現代でも起きているだろう。
  それでは自分は、いわゆる"攻略順"をどのようにして決めているのだろうかと振り返ってみると……えーと、もしかして、キャスティング? プレイ順序の方針のことはあまり意識してこなかったけど、とりわけ恋愛AVGの場合は、その都度の配役布陣の中でどの声優さんのお声を(芝居を)たくさん聴いてみたいかによって、その率直な欲求に従って目標を決めているような……こんなことでいいんだろうか。


  なるほど、地名のEyemouthが「アイマス」と発音されるのか。Innsmouthが「インスマス」と訳され(片仮名転写され)うるのと同じ事情ですね。他にも、有名なところではポーツマス(Portsmouth)、プリマス(Plymouth)、ボーンマス(Bournemouth)、等々、基本的にこのように発音される(――だから、「インスマウス」という仮名書きは、おそらく適切な翻字とは言えない)。Ghoti!


  LVのあのパターンデザインはしょうもないものだと常々思っているし、持っている人に対しては私の中で自動的に美的センスの評価が数段階下がる。


  [ http://naminamikonamin.blog.fc2.com/blog-entry-365.html ]:なんという邪悪な笑み……。



  2013/04/16(Tue)
  成瀬未亜氏が声優業復帰されるとは。おめでとうございます。そして、ありがとうございます。
  twもちょっと覗いてみたけど、ゲーマーたちからずっと慕われてきてたんだなあ。
  ゆず&風車に連続出演されていたのは有名だろうけど、XERO系列やUNiSONSHIFTでも気持ちの良い芝居を披露されていた憶えがある。あ、あとLump of Sugar、CROSSNET系列、ALcotとかも。どの作品、どの役でも、聴き終えた後はいつも好印象ばかりが余韻として長く残るという不思議な方。

  ということで、次は成瀬氏出演作から選んでプレイしよう。


  木村氏が占い師キャラで主演されているのであれば買うしかない。>『幻創~』
  こういう一枚絵とか。[ www.getchu.com/brandnew/761810/c761810sample1.jpg ]

  再確認してみたら、来月はensemble、Shelf、脳彼、light、ま~まれぇど、EX-ONE、場合によってはKLEINとLoSと、それからだんでらいおんには海乃氏が出演されているしHARUKAZEも気になるし……ふぇぇ。なんかもう面倒だからまとめて通販にしちゃおうかな。
  六月は『BB3』とAstronautsとEscu:deと3rdEye。笛/J-MENTコンビが10mileから新作。Fizz新作は脚本6名体制が気掛かりだが候補に入れておく。onomatope*は原画が変わっても可愛らしい作風は変わっていない。propellerは完全に一般作ブランドとしてやっていくつもりなのだろうか。どちらにせようまくいってほしい(――後日追記:SMEEのも買う。つるみくは……どうしようかなあ)。

  新作情報を見て回っていたら、屋台ラーメンの一枚絵に立て続けに遭遇して胸焼けが……。
  [ www.getchu.com/brandnew/761807/c761807sample5.jpg , 768535/c768535sample1.jpg ]


  英単語の誤記というとivent(event)とかcharactor(character)とかfarst(first)とか……。creator、actor、director、processorのように"-or"を使う語も多いので、気持ちは分からなくもないが。そういえば『さよらなエトランジュ』なんていうタイトルもありました。未プレイだけど。「~だらよ」は、方言(静岡弁だっけ?)だというのを知らず、当初は造語か何かなのかと思い込んでいた。


  フィクション表現の中で実在固有名詞(に由来する語句)を使うことを禁じるのは、あるいはフィクションの表現内容が常にその語句が関わる現実世界での諸事実に即していることを要求するのは、きりが無いどころかそもそも無意味なのでは……。例えばファンタジー世界の描写で「杞憂」や「四面楚歌」という言葉を用いたらその架空世界はそれら実在の古代中国国家「杞」「楚」が存在した世界であると解釈されねばならない、なんてことになったら窮屈すぎる。あるいは、「背水の陣」「国士無双」「匹夫の勇」といった言葉が一度でも用いられたなら、その世界には斉王韓信が存在したということになるというのだろうか。そして近現代の人名(例:ダイソン)が関わる場合にも、同じ疑念が向けられねばならない(――人名に由来する名称のことを「エポニム」と呼ぶらしい。「サンドウィッチ」も「レントゲン」も「ブルマ」も「サド」「マゾ」もこれに該当する)。そもそも、あらゆる言語体系のあらゆる語彙は、例えば漢字の字画の成り立ちから人工言語に至るまで、歴史的経験的偶然性の世界の中で成立したものであって、「どのような条件であっても科学的論理必然的にそのような語(特定の文字と特定の音声)になる筈の概念/事象」などというものはまず考えられない(――「○」を描いて「円(circle)」を表すくらいならば、あるいは「ぎゃー」と叫ぶことで「人間の精神的安寧に反するなんらかの事態を報せる」くらいならば、事実上全ての人間社会で通用するかもしれないが)。それゆえ、そうした現実世界との対応如何を咎めようとする姿勢は、オールオアナッシングのいずれかの極(すなわち議論が無意味になる地点)まで走るしかなくなる。もちろん、フィクション世界の描写に際して、そうした連想が働いてしまいやすい言葉を注意深く取り除くというのは、配慮の行き届いた一つのアプローチだと思うが、しかしそれは絶対的な要求ではなく、まして、フィクションが真理に従属することを受け入れたがゆえにそうなっているというわけではないだろう。科学について、とりわけ、科学(学問)一般ではなく個々の特定の科学分野の知識が関係する言明について、それが当該科学によって規定される領分に属するかどうかを顧みること無しに――換言すれば、当該科学分野の諸前提が妥当するための条件が満たされているか否かを考えずに――その知識を振り回すのは、それ自体きわめて非科学的な姿勢と言うほかない。
  cf. [tw: 323210016893063169 ]



  2013/04/15(Mon)
  一昨日のミニゲームの話。Liar-softのミニゲーム群のことを完全に失念していた。しかしこのブランドの場合は、たしかにデジタルゲーム設計技術は(システムデザインとプログラミングの双方において)けっして高くないだろうが、あの執拗なミニゲーム導入志向はスタッフの経歴に由来するとおぼしき、ほとんどイデオロギー的と言ってよいほどの、その特有のゲーム観を披瀝するものであって、ゲーム制作センスの欠如の現れではないと考えている。
  以前の発言の繰り返しになるが、Liar-softのゲームパート志向の特質及び意義については、雑記欄5頁目の2012/4/23付でLiar/みりす/SHCの共通性の一つとして述べた。すなわち、"プレイヤーのTRPG的参加要素――それは「目的追求的な、難易度の高い『ゲーム』要素」であるよりむしろ「物語を(状況を/イベントを)展開していくための基盤となる、遊戯的な独自システム」として受け取られる"というのが私の理解であり、この見方は現在でも基本的に変化していない。つまり、これらのブランドにとって「ゲームシステム」とは、「勝敗を決するための遊戯的活動」にとどまるものではなく、ある架空状況を構築しそこにおいて生起する数々の「イベント」群をコントロールされた形で出力していくためのシステマティックな表現手段そのもののことであり、その意味において「システム」とその上でドライヴされる「物語」とは、けっして対等に併置されるものではなく――つまりクリシェ化した議論において『YU-NO』を評する際に縷々用いられるような、ゲームとストーリーの「(二つの別個対等の要素の間の)融合」といったような次元を超えて(そして『YU-NO』自身も、そのような対等性の固定観念を完全に克服していたのだが)――、もっと密接な、そしてデジタルゲームに固有の形で組み上げられていた、あるいは少なくともそのような深い相互作用が目指されていた(――そしてとりわけSHCは、私見では、それを実際に実現し続けてきている)。
  作品を個別に見ると、例えば『行殺・新選組』は2000年の発売であって時代がかなり異なるし、『水スペ』(2009)は資金/人材管理パートと成功判定ゲームパートとがあって作品コンセプトとしても意味のあるものだった。『シャルノス』(2008)の鬼ごっこゲームはホラーシーン表現としてわりと良かった。奇怪な現象の唐突さとその不安感を表すうえで、プレイヤーの自発的クリックのみによるAVGパートよりも、環境全体が提示されるシステマティックなゲームパートを選択したのは、適切な判断だったと思う。実際には、面倒だという感想も各所で散見されるし、そうした冗長さの側面があることは否定しないが、しかしけっしてそれだけではないと思うのは、如上のとおり物語表現手段としてのシステムという創造的側面が確かに見出されるからだ。
  もちろん、Liarスタッフがどのような志向によってミニゲームを導入したのであれ、それが市場受けを考慮していないならば、前記の批判に服することになるが。また、氏の発言の――その事実命題としての真偽はともかく――前提を成すとおもわれる問題意識、すなわちゲームのシステムデザインのための人的/技術的蓄積が失われていることに対する懸念は、分からないではない。様々な事情(業界の規模と会社規模と作品規模、この市場でゲームパートが持ち得る価値、制作体制と人員編成、等々)に照らして、現在の(あるいは昔も)PC美少女ゲーム業界の状況は、ゲームデザインのための専門的なスタッフをストックとして保持するには不向きであるというのは、おそらく一般的に共有されうる見解だろう。専業のシステムデザイン担当者を社内に置く(つまり賃金を払い続ける)にはこの分野の大半のメーカーは小規模すぎる(――なお、一昨日のコメントで私がファンディスクにおけるミニゲームを肯定的に捉えているのは、まさにこうした考慮から、すなわちPC美少女ゲームメーカーが「ゲーム」制作ノウハウの蓄積と新たな実験を行い、そしてゲームデザインのできる人材をストックし彼等のインセンティヴを提供すること、そしてさらにはユーザーたちの間にも「ゲーム」に対する感性とキャパシティを確保することにつながるという意義が見出されるからである)。また、システムデザインを専門的に受注するデザイナー(個人または外注会社)という形態も成立しにくいだろう。新たな人材の供給も、同人上がりの新規メーカーくらいで、とりわけコンシューマからの人材流入はほとんど聞かれない(――実際にはあるのかもしれないが)。だから、現在まさにそうあるとおり、継続的にSLGタイトルを制作する専業メーカーの中で、しかもシステム設計だけでなく他の基幹業務と兼任する形でそういう人材を保有するというのが、ありうる限られた選択肢ということになる。SHCの内藤氏(企画統括を兼ねる)、Escu:deの水鼠氏(企画とプログラムも行う)、ninetailの鬼影氏&け~まる氏(企画と脚本も兼任)はいずれもこの形態だと考えられる。e.go!/でぼやLeafやCycでどなたがシステム設計を担当されているのかはよく知らないが。
  ただし、ゲームパートの存在が売上げに対してマイナスに作用するかどうかは、疑わしいように思われる。小規模なミニゲームか本格的なゲームパートかによっても事情は異なるだろうが、もっぱらキャラクター要素とアダルト要素によって牽引されているように見えるこの分野でも、「ゲーム」に対する需要はけっして小さくないのではないかと思う。それは、SLG系タイトルがしばしばセールス上位に来ていることからも窺われる。「ゲーム」の制作技術やノウハウについても、以前とは比べものにならないくらい多くの情報が入手できるようになっているのだし、美少女ゲーム分野における「ゲーム」制作の未来については、それほど悲観することも無いと思っている。
  ……ごめんなさい、普段の雑記にいやまして錯雑したごちゃごちゃなテキストになってしまった。

  そういえば00年代の終わり頃にいくつものメーカーがSLGタイトルを試みていて、結局それらの中でブランドとして先につながったのはninetail、げ18、かぐや/astronautsくらいだったけれど、あの一時期の盛り上がりは業界全体としては良いことだったと思う(――このあたりの会話[ twilog.org/kazenezumi/date-110219 ]を参照。この一連の会話の中で、私はボケ役の側だが)。『よつのは』がRPGのような場所移動システムを持っていたのも、わりと面白かったし。SkyFishも、ミニゲーム以外にも様々な演出上/システム上の実験を試みていて、例えば『翠の海』では分岐ヒントを兼ねたエンディングリストモードがあって、良い出来だったのを憶えている。



  2013/04/14(Sun)
  華#16とSTP#347、なんだかすごいことになってる……。ここ数年のお花見収録の中でも突出しているのではなかろうか。


  PCゲーマーだった方々(のお金と言葉)が、ここ1年内外で大挙してモバイルゲームに流れていきましたね……。私はそういう方面ではコミュニケーション意欲も収集欲も乏しいし経済観念もそちら向きではないので、今後とも距離を置いたままであり続けると思いますが。


  波奈束氏のお声をもっと聴きたいのだけど、出演作はかなり少ないうえ、買いたいタイトルとの巡り合わせもなかなか無いのが、歯噛みするほどもどかしい。
  ……と思ったら、来月のEX-ONE新作に出演されているのか。五行氏もいらっしゃるし、とりあえず買っておこうかな。

  六月発売の原画10人(+SD原画1人)のごった煮は、さすがに意欲が湧かない。

  あ、来月はま~まれぇど新作にも主演されているのか! これなら今春はずっと幸せだ!

  ただその「声」をひたすら聴きたいというときはゲーム中の音声芝居を聴くよりもwebラジオのトーク音声の方が満足度が高くなるというのはよくあることだが、それはただ単に喋っている時間が長いとか声色が細工されていないとかいった点だけではない。「声の専門職」の仕事は、役者として芝居をすることだけではなく、ラジオパーソナリティも(ナレーターや司会業と同様に)まぎれもなくそのプロフェッショナルな仕事の一つなのであって、表現行為と無縁の非本質的非芸術的なサービス業的行為などではない。このことを再確認したうえで、最近になって私はようやく正当にwebラジオを享受することができるようになった……ような気持ちになれた。
  それにしても『リベリオンズ』ラジオはもっと続けてほしかったなあ。その軽やかで楽しげな声色で中和されつつもわりときつめなSキャラぶりを披露されている沢村氏のトークは、聴きごたえがある。



  2013/04/13(Sat)
  [tw: 322533000812302336 , 322538514774376448 ]:「もうゲームっぽいの作るにもノウハウがないから、とりあえずミニゲームいれてみました→爆死みたいな例が10年ぐらいまえかちょぼちょぼありますね」というくだり。ゲーム作品の評価に際して「爆死」という非常に侮蔑的な(少なくとも私にはそう聞こえる)言葉を実作者サイドの人物が使っていることの是非はともかくとしても、ミニゲームを組み込んだタイトルは「結構(多い)」どころか「ほぼ皆無」ではなかろうかという疑念が湧いた。私の疑念は二点。すなわち、「唐突なハードルとしてのミニゲーム(というものをおそらくこの人物は想定している)を組み込んだタイトルは、そんなに存在するのだろうか」という問。そして、「ミニゲームを組み込むことは、はたして(品質上の/商業上の)失敗の大きな原因となるのか」という疑問。
  第一の問について。2003~2013年のスパンで見て、本格的でないゲーム要素がAVG作品の中に導入される例は、どれほど存在しただろうか。
  1)ミニゲームを含むフルプライス級タイトルの典型例として『Maple Colors』(2003)があるが、これはかなり高い評価を博しており、けっして失敗作だとは(とりわけ「ミニゲームのせいで失敗した作品」だとは)言えない。pajamas soft系列(『プリンセスうぃっちぃず』『プリズム・アーク』『ティンクル☆くるせいだーす』)やEscu:de作品(『あかときっ!』)のバトルパートも、内容上もミニゲームの枠を超えているし売上げにおいてもおそらく成功作であった。『リトル~エクスタシー』も、失敗作どころか大人気タイトルである。境界線上にあるのは、『ソレイユ』シリーズ(『鋼炎』のカードバトル、『蒼穹』のチェス型ゲーム)くらいであろうか(――もちろんこのブランドも、F&C以来キャリアの長いスタッフで構成されているので、「ノウハウが無い」という問題ではない)。『幻奏童話ALICETALE』(2012)は未プレイだが、ゲームパートの評判はそれほど悪くないように見受けられる。
  2)FDをミニゲーム集にするというスタイルも、ある時期まではよく見られた。おそらくF&CのFD群に端を発するもので、LeafのFD群(「アミューズメントディスク」)とういんどみるのそれ(『結いぱち』『はぴりら』)が代表的だろう。しかしこの流れは、私見では、2007年の『いな☆こい FD』『和み匣』あたりでほぼ終息しており、近年のFDのほとんどはアフターストーリー展開やベッドシーン増強を主眼としている。また、元作品の成功をベースにした企画であるため、成功/失敗を論じるのには適していない(――なお、このようにファンディスクの中で遊戯的な実験が試みられていた一時期について、私は好意的に見ていた。そうした動きは、残念ながら現在ではもはやほとんど見られないが)。
  3)時限選択肢システムや画面内クリックによるアイテム発見(例:HOOKSOFT)のような、システム上のあまり重要でない(あるいはゲームとしてけっして難しくない)仕掛けが組み込まれている場合がある。しかしこれらは、ゲーム進行上のハードルではなく、「お遊び」としての余興的システムと捉えられるべきものであり、またこれらのシステムがセールスを阻害した(第二の問)かどうかも疑わしい。それらはおそらく、成功(セールス)に寄与しないとしても失敗の原因にもなっていない。
  4)それほど大規模ではないゲームパートを含む実例は、低価格タイトルの中に時折見出される。とりわけanastasiaとsofthouse-seal、それからEGScapeのタグによると『フェチ 表の記憶』『他の男の~』なども該当するようである。これらについても、「ゲーム部分の品質はそんなに問題なのか」「ゲームパートの存在が失敗の主原因であるのか」はけっして自明ではない。anastasiaはEushullyの系列であり、基本的にはSLGの文脈で扱われるべきブランドであるため、「ノウハウがないから」云々という文脈で言及されるのは適当でない(――なお、『魔法が世界を~』は定価3800円[税抜]ながら内容上も育成パートと戦闘パートの双方を含んでおり、その名乗りのとおり正式なSLGと見做せる。ただしゲーム部分は面白くなかったが。『蒼海の皇女たち』では潜水艦戦闘パートが何度か挿入され、これはそれなりに不評だったようである。anastasiaの問題は、「AVGブランドが無理にミニゲームを持ち込むこと」の問題ではなく「SLG系ブランドにもかかわらずこれほど品質が低いこと」の問題として考えられるべきであろう)。私の知る範囲内で、論者の上記主張に唯一該当するのはsofthouse-sealであり、私もこのブランドの非AVGタイトルのいくつかが明白に不出来であることは認める。しかし、この唯一の例をもって「ちょぼちょぼ」つまり散発的ながら継続的に幅広く現れていると述べるのは明らかに妥当でないし、そしてさらに第二の問:「ミニゲームを組み込むことは、はたして(品質上の/商業上の)失敗の大きな原因となるのか」に服さねばならない。
  これらの他にもあるかもしれない。上では失敗したタイトルに言及されているので、私が知らない(つまりマイナーな)タイトルにそうした例が多数実在するという可能性は一応考えられる。しかし、私の知りうるかぎり、ここ十年来の商業アダルトゲーム分野には、「ゲーム」設計の経験の乏しいスタッフがゲーム進行の要所にハードルとしてミニゲームを強引に導入することによって失敗した作品、のごときものはほとんど存在しない。むしろ90年代から00年代初頭――つまり「ゲーム」制作のノウハウがまだ残っていた筈の時代――の方が、ミニゲームのあるタイトルは多かったように思う。すぐに思いつくのは『BE-YOND』(1996)の射撃ミニゲームやF&CのいくつかのFDタイトル、あるいは『やどかりタイフーン』(2002)のQTEの頃まで。連打クリックを含むバカゲー『Theガッツ!』も第一作は1999年、つまり14年前だ。この人物はおそらく「十年以上前にはゲームデザインの確かなノウハウが存在したが、読み物AVGに特化したここ十年間でノウハウは失われ、つまらないミニゲームしか作れなくなり、そしてそれらは当然失敗した」といった歴史的変遷を念頭に置いて発言しているが、私見では、それは実態に即していないか、あるいはそうした局面が存在するとしてもそれは局所的なものであって業界の大部分はそれと無関係に推移している。

  私見を要約するなら、ハードルとしてのミニゲームをAVG進行の中に導入しようとする不格好な試みは、商業アダルトゲームにおいては、XP時代にはほぼ絶滅しており、FDというパッケージングの中でも行われなくなった。硬直的で前時代的な「ゲーム性」幻想は、この分野ではもはやほとんど顧みられていない。現在では「SLG系ブランドの専業化」と「AVGの中の遊戯的な仕掛け」の二つに枝分かれして久しい。例外は、その品質の低さをものともしない多作戦略のsofthouse-sealと『ソレイユ』シリーズにほぼ限られている。

  追記。もう少し調べてみた(※FDは省略)。『淫獄~列車』にはクリックミニゲーム。低価格では、『やりすぎいたずら! スイミングスクール』には双六型ゲームパート、『フェチ』シリーズにもブロック崩し。3DではTEATIMEの『恋愛+H』『らぶデス555!』にもミニゲームがある模様。Abel softwareの『オタカノ』『萌恋維新』はどちらもミニゲーム多数とのこと。『魔女道』には箒レースゲーム。『むすめーかー』にもSTGなど複数。『背教学園』『おね・たま』『トーマスⅡ』『鉄腕がっちゅ!』にもミニゲームがあるらしい。こうして見ると、うーん、無いわけではないけれど、xuseもみりすもSLGタイトルを複数リリースしているブランドだし、G.J.?も『百機夜行』を制作するところまで行ったわけだし、3D作品はどうしてもそういう傾向が出てくるし……。Abel SWはやはりブランド全体として「ゲーム」信仰をずっと維持していたのだろうか。
  全体として、本格的でないミニゲームパートを伴うタイトルは、年に一本かそこらは出ているとは言えるようだ。そして、その中には、(個々のタイトルで実際にミニゲームを導入したか否かにかかわらず)あまりセンスのよろしくないブランドが確かに含まれる。そしてそれらのミニゲームは、個別作品の失敗をもたらす直接的な原因であるというよりも、あるいは個別作品の成功如何にかかわらず、ブランドのセンスの悪さやゲームデザイン能力の低さを示唆する徴候であるという考え方をするのが適切だろう。この理解は、上記発言の意図にも近い筈である。そして、そうした設計能力の欠如を露呈したタイトルの数量乃至頻度を表現し評価するに際してこれを「結構(多い)」と述べるのがどこまで妥当であるかという文言上の程度問題に、私の疑念の一つは帰着する。
  他方で、売上げに(マイナスの)影響があるかどうかについては、私にはコメントできるだけの能力(知識)が無い。また、現在のPC美少女ゲーム分野がゲームデザイン能力とゲームプログラミング能力どれだけ保有しているか、どれだけ継承しているか、あるいはどれだけ失ってきたかも、私にはほとんど分からない。コンシューマ/アーケード/同人/海外/ソーシャル等々、他分野のゲーム業界との間の組織だった連携や人的交流が希薄なように見え、それゆえ新規性のある「ゲーム」デザインを展開していくための人的資源はおそらく乏しく(一部のブランドに偏在しており)かつ人的資源と知的資源が大掛かりに追加投入されていくという展望もあまり見込めないように思われ、この点ではノウハウの喪失という最初の問題意識それ自体は私にも窺い知ることができる。もちろん、その代わりにこの分野がどのような点に注力しどのような成果を挙げどのようなノウハウを蓄積してきたかを述べなければ公平を欠くが。

  この方の事実認識はどうも疑わしいところがあり、以前もどこか別のところでツッコミを入れた憶えがある。上の発言のすぐ後の[tw: 322534113770893312 ]:こういうことを口走るなら、世界を視野に入れる前にまず足下の、現在の国内アダルトゲーム業界の他のSLG系ブランド群の――つまり同業者の――試みと成果をきちんと確認してほしいものだ。SHCなめんな、Escu:deなめんな。
  [tw: 322579362870349824 , 322546262366892032 ]:この二つの発言を見ても、「ゲーム」の武器はその特有のメカニクスにあるという原則論的立場は私も首肯するが、その一方でこの人物はゲームの組み込みをストーリーに対する外部アタッチメントの適切さとしてしか捉えていないように思われ、システムがストーリーを規定するという構造的な相互作用的側面が閑却されているように見える。なんかすごく古い。


  「ゲーム(AVG)」と「デジタルノヴェル」の線引きについての問も、正解を求めても仕方ないし、ましてや「選択肢(分岐)の有無」がそのメルクマールになるとは思わない。絶対的普遍妥当的な境界線が存在するわけではなく、あくまでその都度の論点次第だろう。「読み物か、ゲームか」といった問を立てる場合にはどちらも(ほとんどが)読み物の側に置かれることがあり得るだろうし、メディアとしてのインスタレーション的側面を重視する場合にはどちらも「ゲーム」寄りにまとめて扱われる余地がある。同様に、紙媒体の「(通常の)小説」「リプレイ小説」「ゲームブック」の間でも、その都度の問題設定によって意味を成す境界線の位置は異なる。


  EGScapeのタグ「劇中劇」は、わりと興味があるので、気が向いたら自分でも追加してみたい。



  2013/04/07(Sun)
  [ Liar&raiL BACKYARD ]:どうでもいいことなんだけど、ブログタイトルのネーミングセンス(というか端的に語の選択と表記と構成)がもろ被りになっていて少々気まずい。
  なお、上記の04/02付記事についていうと、その種のシーンを指す言葉として私が使っているのは主に「アダルトシーン」、その他に「ベッドシーン」「濡れ場」「Hシーン」など(――たぶんこの順番で使用頻度が高い)。ただし前二者は和製英語の可能性があるが。「アダルトゲーム」という呼称と合わせているつもり。それ以外の使い分けはあまり意識していないが、たとえば「この場面のロケーションはベッドの上ではないからなあ」とか「色気のある場面というニュアンスを含めて言及したいのでここでは『濡れ場』と書こう」といった余計なことに気を回してしまう時はある。直接的な性行為以外の様々なアクションも含むのが通例であり、かつそれらの相違はユーザーにとっても重要なので、「"セックス"シーン」というのは狭きに過ぎると思う。幅広い行為を総称するうえでは「18禁シーン」というのもありかもしれないが、いかにも観察者的な(作品外在的な)用語法なので、作中のコンフィグ等で「18禁シーン」という言葉を使われると興醒めになってしまいそうだ。婉曲に「回想に登録されるシーン」という表現も使ったことがある。色彩でいうなら、「肌色シーン(肌色面積が大きくなるシーン)」というような言い方をしたこともあった。


  新年度が始まり、仕事が忙しくなるので、更新ペースが下がると思います。



  2013/04/06(Sat)
  『幻燐~』(2001)の大波キャラの名前が「イリーナ・テシュオス」(公式サイト)と「イリーナ・マーシルン」(wkpd)とで食い違っていて頭に疑問符が浮かんだけど、ああ、これ、本編中で主人公(「リウイ・マーシルン」)と結ばれて改姓するということなのか。「雪さんは、今から瀬能雪」みたいな。

  どうでもいいことだが、『水月』は主人公名前変更可能なので、このイベント上で――そのパラグラフの字面の上で――雪さんを「森 雪」化させたり「名 雪」に改名させたり、あるいは「水瀬名 雪」にさせたりすることができる。

  大波氏はこの当時から栗色ツインテキャラを得意とされていたのだなあ。


  [tw: shinia/status/318678700126253056 ]:イラストレーターはこの方なのか。メモ。


  【 「SFは売れない」のか 】
  PC美少女ゲームでも「SFは売れない」あるいは「SFは売れないと言われている」といった話が口の端に上るが、それはどのような意味合いにおいてそう言われているのか、それははたして正しい(事実である)のか、そして我々ゲーマーはその発言及び事実をどのように受け止めればよいのか。例えば、孫引きになるが、流通側担当者と思われる人物に、イベントの場で以下のような趣旨の発言があったらしい。「実際、営業さんの視点だと『SF』でなかなかヒットはでない。もちろん、何をもってヒットと呼ぶかという基準はあるものの、売り上げ的に見た場合、ここ数年で成功したと言えるほどの作品はほとんどないだろう、ということでした」([ http://oyoyoiko.dtiblog.com/blog-entry-467.html ])。このような発言を、読み手はどのように考えればよいのだろうか。
  まずさしあたって、個々の作品の内容面に深くは立ち入らず、セールス実績を参確認してみよう。getchu.comの年間セールスランキングは以下のようになっている(下記の各リンク先はアダルトコーナーにつき注意)。
  - 2012年:[ http://www.getchu.com/ranking/salesranking2012.html ]
  - 2011年:[ http://www.getchu.com/pc/salesranking2011.html ]
  - 2010年:[ http://www.getchu.com/pc/salesranking2010.html ]
  - 2009年:[ http://www.getchu.com/pc/salesranking2009.html ]
  - 2008年:[ http://www.getchu.com/pc/salesranking2008.html ]
  2012年発売のトップセールスの中でも、『蒼刻~』(近未来)、『Rewrite HF』、『'&'』、『中の人~』(近未来。ロボット等も登場する)、『Dolphin Divers』(近未来の海事訓練校)などはSF要素を含んでいると見做される。他の年も、『大帝国』(宇宙戦争)、『らぶ2Quad』(対エイリアン戦争)、『Hello, good-bye』(架空歴史もの)、『置き場~』(ロボットもの)、『Para-sol』(近未来)、『BALDR SKY』(サイバーACT)、『JINKI EXTEND』(ロボット)、『ぜったい遵守~』(近未来人口問題)、『オルタ クロニクルズ』、『夜明け前~』(月世界人)、『Stellar☆Theater』(宇宙人)等々、何本ものSF系タイトルがセールス上位に上がっている。こうして見ると、SFはごく一般的な趣向の一つとして通用しており、「SFは売れていない」と述べることは難しいように思われる(――例えば歴史もの、触手もの、ミステリ等の方がよほどマイナーだろう)。また、全タイトルで見ても、「SFであること」と売上との間にはおそらく有意な負の相関は見出されないだろう。「SFは売れない」という命題は、正しいとは言えない。
  それゆえ、「SFは売れない」という主張が意味を成すためには、なんらかの形での解釈的加工が必要になる。想像できるのは、例えば、「狭義(つまり本格)のSFは売れない」、「SFは売上げを上積みする要因にはならない」、「SF要素を入れなければもっと売れた筈だった」、「『SFは売れない』と考える人々が(例えばプロデューサーサイドに)多いので、SFは企画を通しにくい(制作して「売」るところまでもっていけない)」、あるいはそれらの複合、といったあたりだろうか。とりわけ営業担当者の経験上の実感として「(本格的な)SFものは企画を説得しにくい」というようなことは、たしかにいかにもありそうなことに思える。
  しかし、これらのように改訂された主張であってもなおも、それを述べることが意味を成すかどうかは疑わしい。例えば、「SF設定を導入することが、売上げを増すことにつながらない」が真であるとしても、それはSF以外の多くの趣向について――「吸血鬼もの」であれ「男の娘」であれ「ファミレスもの」であれ何であれ――当てはまることだろう。もちろん一時的な流行り廃りはあるだろうが、SFはほとんど影響を受けない、あるいは、幅広い外延を持つため「SF」を総称して流行り廃りを論じることはほとんど意味が無い。「SFであるおかげで大成功した作品」のごときものはおそらくほとんど存在しないであろうが、それはSFに限ったことではないし、ましてSFに特有の内在的欠陥などではない。そして、それにもかかわらず殊更にSFばかりを槍玉に挙げて「売れない」と主張されるのは、SF好きにとっては不公平感がある。また、本格SFを過度に志向すればセールスの門戸は狭まるというのはおそらく確かであろうが、それもSFのみの問題ではない。ディープに嗜好特化すればついていけなくなる層が出てくるのは、他の「本格的な○○」すべてに共通する現象だろう。
  結局のところ、我々は穏当な結論に留まるべきだろう。すなわち、SFは売上げを改善する特効薬ではないのだとしても、しかし同時に、売上げを引き下げる足枷になるわけでもないと(――命題の後半部分を主張できるのは、上記のとおりセールス上位にSF作品が少なからずランクインしているため)。たしかに、SFは企画立案者や営業担当者のアピール手段として有効ではないという向きはおそらくあるのだろうが、ただそれだけのことであって、市場的/技術的に制作困難であるということは無いのではないか、もっと楽観してよいのではないか、と思う。
  実作者たちの中にも、如上の推測を裏付ける発言がある。一例として、2010年度「京都SFフェスティバル」における企画/脚本担当者らによる一連の発言を引用しよう(――孫引きである由、ご寛恕願いたい)。SFものは「一般的に売れていないわけではない」(ルーチンワーク徒然草より)。しかし、「『コストがかかる(必要な絵の素材量が多い、シナリオが難しい)』とかもあるのだけど、一番は大きいのは『学園モノ以外は売れにくいと思っていて、それ以外を作りたがらない』メーカーが多いからだとかなんとか。/そのためにSFで企画を出すのもしんどいとか。SFで一度こけると次は凄く作りにくいとか」(udkの雑記帳より)。つまり「冒険心のなさがSFへの第一歩を退けている」(ルーチンワーク徒然草より)。なお、私もこのイベントには参加しており、実際にこれらのような趣旨の発言があったことを記憶している(――[tw: 26829838058 ]のほか、2010/10/09付twlgを参照)。


  軍師/参謀ヒロインというと、『王賊』の八重や『ランス』シリーズのヒロインズ(アールコートやクリーム)も良かったが、私の中でのベストは『桜花センゴク』の「隆景ちゃん」。ありがちな腹心策士ではなく実際に一軍を率いており、かつ戦局全体を見通した高度な策略を複数回実行しそれぞれ成功させ、しかもご都合主義的な超人的活躍ではなく説得力のある形で完遂していた。その成功ぶりの描写は非常に華のあるものだったし、大野まりな氏の演技も凄味があって素晴らしかった。


  今回もいかにもオガタコージな作品だなあ……とりあえず買おう。>『待雪の花』



  2013/04/05(Fri)
  「ばあい」と「ぜったい」は平仮名で書きたくなる。「ぷろじぇくと」と書くと途端にかぐやっぽくなる。しかしあの作品をプレイしていない私は「どんぶり」の続きを「感情」と誤記することはけっして無かった。同じく未プレイでも「カスタードクリームたい焼き」は(そんなに語呂が良くもないのに)つい口走ってしまいそうになるが。


  DNMLは当時の先達から「これも必修単位だよ」と言わんばかりに一揃えインストールさせられたなあ。PCゲームがどのような構造で成り立っているかを初心者が理解するうえで、確かにそれはとても有益なものだった。90年代末から2000/2001年頃にかけての葉鍵界隈ではおそらくかなりの人がその存在を知っていた筈。


  昨日の補足。
  とはいえ私自身も、そうした限定されたフィールドの中では、もしもその外部に出して社会的表現として通用させたならば差別的なものとして非難を受けるかもしれないような志向を保持し、そして表明すらしている。例えば「私は可愛いヒロインたちと楽しくいちゃいちゃする物語を読みたくてこのタイトルを買ったのであって、男性悪友キャラとの説明会話ばかりを延々聞かされるためにこのゲームをプレイしているのではない。この作品の制作者は分かってない! この作品は脚本レベルで失敗している!」といったような不平の声を上げることを私は躊躇していないが、それは私がこの分野が人的市場的文化的に有する文脈的隔壁の存在を信頼しているからでもある。

  そういえば、おそらく2005年頃からグロテスクに奇抜化して久しい「男性悪友キャラ」なる存在が、2013年現在でもいまだに淘汰(あるいは改良)されないまま広汎に通用しているのは、不可解でありそして不幸でもある。
  まさにその2005年に発売された『はぴねす!』が示していたように、悪友キャラなどすっぱり排除してしまうか、あるいはそういう役回りがどうしても必要であるならば可愛らしい女性キャラ(※物語進行によってヒロインの地位に移行しうるか否かはともかくとして、また女性であるか男の娘であるか否かにかかわらず)に置き換えてしまうというのが、おそらく美少女ゲームとしては素直な解決だと思うのだが、実際にそうした処方を施したタイトルはあまり見かけない。男性にあらずして"男装の麗人"な悪友キャラのいる『はっぴぃ☆マーガレット!』、低等身のトリックスターキャラ(CV: 北見六花)のいる『おたマ!』や、パッチによって悪友キャラが「女体化」される『さくらビットマップ』なども含め、実例はけっして少なくないので、この時代遅れにも見える役柄の扱いが改善されていくことを期待したい。
  そもそも、どうして「悪友キャラ」なるものが使われているのだろうか。爆弾処理の必要な恋愛SLGの時代じゃあるまいし。イラストレーターにとってしばしば描き慣れない性別であるという点でも、クオリティを引き下げていることが間々ある。

  奇抜悪友の源流は……九品仏大志(1999年の『こみパ』)だろうか? しかし2004年以前には滅多に見かけなかったしそれほど極端でもなかった(せいぜい女風呂を覗きに行きたがる程度……いや、駄目だが)ので、直接的なきっかけは『CLANNAD』(2004.04)や『巫女さん細腕~』(2004.06)だったとするのが妥当かもしれない。
  あるいは、個別タイトルが流行を作ったというよりも、構造的な事情に原因を見出すこともできるかもしれない。90年代は主人公自身が一人のキャラクターとしておどけた振舞いを行っていた(典型的にはelf主人公)が、00年代に入って感情移入テーゼの普及や脚本長大化傾向に伴って主人公の性格設定が中立化を要請されるようになり、そのため従来は主人公の属性であった奇抜性要素が悪友キャラへとパージされた、といった経緯を想像することもできるだろう。


  関西ではスマートフォンは(まだ)支配的ではない。電車内で目にする感じだと、スマートフォンと折り畳み携帯は3:2か2:1くらいの比。もちろん、ここ数年で大規模な移行が進んでおり、とりわけ若年層(言い換えると、最近になって新規契約をして使い始めた人々)では前者がかなり優勢になりつつある。現在の大学1~2回生なら、数年前(スマホ流行以前)に購入した折り畳み携帯をまだ使い続けているといったパターンもまだ一定数いるようだが。


  「馬鹿は大阪だけでやれ」……まったくだ。ただし神戸市民のことも私はあまり好きではないが。仕事で神戸を訪れるようになって気付いたことだが、彼等はいつも右側ばかり歩いていて非常に鬱陶しい(つまり対向歩行者と何度となくぶつかりそうになる)というのがその理由。


  ダーク系タイトルでも、麻薬使用描写はあまり見かけないように思う。倫理機構的な制約があったりする(orした)というわけでもないだろうが。ただし、実在の(あるいはごく一般的な呼称での)薬物が挙げられることは稀だとしても、催淫作用のある(架空の)薬物や魔法は多用されているのだった。常習性(依存性)のある薬物を使用する描写というと、たしか『Pigeon Blood』や『仏蘭西少女』にもあったと思うし、『痕』のサブキャラも薬物投与されていた。『鬼畜王』の「あおい」にも、麻薬中毒を治療するイベントがあった。その他、いくつもの作品にその種の描写は見られるが、全体としては以下のような傾向があるように思われる: 00年代初頭までは一定頻度で存在した。当時でも具体的な薬品名等はあまり挙げられなかった。 それ以降は、ごく一部のブランド(例:Black Cyc)を除いては、現実に近い薬物表現はほとんど見られなくなった(?)。現在では、最も多用されているのは(成分等はまったく不明の)媚薬である。描写のウェイトも性行為に直結しがちであり、神経作用や依存性の側面はほとんど取り上げられない。薬物描写を掣肘する外的事情は不明。オタク文化との親和性が低いという内的要因によるのだろうか。
  ……知識不足のため、印象先行の雑感で終わってしまった。EGScapeにはPOV「『薬品』がテーマ・伏線となっている作品」があり、それによれば近年でも実例はそれなりに存在する。しかし、媚薬以外の用途で小道具として麻薬を用いるには、(負の)インパクトが強すぎて扱いづらいのだろうか。現実寄りの描写にしてしまうと現実感覚上のマイナスイメージが流入しすぎるし、依存性を強調すると作中の状況として「とりかえしのつかない行為」として描かねばならなくなる。「依存性は無いが即効性がある媚薬」という現在支配的なモードは、必要に応じた妥当なものなのだと思う。



  2013/04/04(Thu)
  Lass新作は、キャストに金松氏と夏野氏のお名前を見た時点で成功を確信できた。
  夏野キャラが掛けているヘッドフォンはおそらく「eskuche 33 1/3」……よく知らない。確認のためweb検索してみたら、剣技氏が回答されていた模様[tw: 152897770179661824 ]。

  ヘッドフォンキャラといったら『PARA-SOL』『英雄*戦姫』と……『はるとま2』(ATH-D1000とおぼしきものと、もう一つピンク色のは何だったか)、『CURE GIRL』『腐り姫』『Strawberry Nauts』『ヒメゴト・マスカレイド』にもヘッドフォン着用一枚絵があった(機種不明)。あとは『蒼海』シリーズの電信兵キャラたちくらいしか思い出せなかった。通信シーンなど、出てくる機会はある筈なので、まだ他にもあるだろう。特定のシーンでヘッドフォンやイヤフォンを着ける描写なら他にもあるし、ヘッドセット(例:『がくパラ!!』『うさデリ』)や頭部装甲(例:Triangle魔法戦士シリーズ)にまで視野を広げればさらに増える。
  サウンドトラックのジャケット画像でキャラクターがヘッドフォンを着用していることもたまにある(――例えば「スズノネセブン」サントラはK701を着けているイラスト。「レイライン」、「らぶ2Quad」、「Soul Link」、「LikeLife」、「HoneyComing」、古いものでは「こみっくパーティー」のSTなども)。サントラ以外でも、「のーぶる☆わーくす」のキャラソンCD群、「天神乱漫」ラジオCD、「プリズム☆リコレクション」ラジオ(Vol.1)などにもヘッドフォン着用イラストがある。
  『奪還機構ラヴネイティア』にもヘッドセットがあったかなあ、とggっていたらちょうど今月末に廉価版が発売されることを知った。もちろんもう持ってるけど。
  追記。『マヂゆり!?』(発売予定)にもヘッドフォンキャラがいる模様。


  萌え(美少女)イラストをフィクションの中からあるいはオタクアートのフィールドの中から引きずり出して他の場面で使用することは、時として――あるいは非常に頻繁に――、「フィクションだから」「オタクたちの内輪での表現だから」という(一応は成立していた)エクスキューズの被覆を剥ぎ取ってそこに内在していた差別的バイアスを露呈させ、きわめて問題のあるものにさせてしまうことがある。ただ単に公共的な表示――例えば公的機関の啓発ポスターや企業の広告など――に際して用いられた画像は、「(芸術的)表現行為」の枠を外れ、直接的かつ全面的に社会的表現の一つとして政治的社会的次元での厳しい目に晒されることになるが、そうした場面で無根拠に特定のカテゴリーの人間像を特定の属性へ指向させるような形で扱うことは、言い訳の余地なく不当なものになる。例えば――実際にあった例だが――交通機関でのマナー向上を促す掲示イラストで、迷惑行為者がすべて若者であり迷惑を被っている人々がすべて高齢者であるように描かれていたならば、もしも仮に実際の迷惑行為の年齢分布が極端に若者に傾斜していたとしても(※もちろん事実ではない)、それでもなお、それは不適切なカテゴリー的偏見に満ちた社会的表現として非難されるべきであろう。そしてこれと同じことが、「美少女」(という、特定の年齢、特定の性別のカテゴリーに属する人々の、特定の志向に嵌め込まれたイメージ)に特化したイラスト志向にも当てはまりうる。もしも、あるグラフィカルな公的掲示物が、これと同じ仕方で、例えば描かれている人物がすべて「30代サラリーマン男性」あるいは「40代の家持ち主婦」あるいは「60代夫婦」といったように社会的身体的属性が不必要に(つまり当該掲示物の趣旨とは無関係に)統一されていたとしたらそれはグロテスクな絵に見えるであろうし、そしていわゆる「二次元」の(とりわけ男性向けの)文化のその特有の文脈を受け入れていない人々にとっては美少女集合イラストはそれと同じように不公正なバイアスに染まったものに見えているというけっして低くない蓋然性があるだろう。
  こうした観点から(も)、「萌え」(例えば萌えキャラ化)の世間的露出はできるかぎり慎重に扱われるべきだと私は考えている。「萌えの浸透」などと言ってにやけたり喜んだりしている場合ではないと思う。美術館ならば「芸術」を楯につっぱねられるが、それはあくまで例外であって、それ以外のほとんどすべての場面ではそのような(唯一拠り所とし得た)エクスキューズはまったく成立し得ず、ただただその社会的批判(が正当なものであるかぎり)に服さねばならなくなる。
  補足しておくが、もちろんこれは美術的様式としての「萌え」画風それ自体の意味論的問題ではないし、また「二次元」分野全体に責任が生じる経済的/分野文化的な問題でもない。そうした美少女イラストの文脈を他の社会的局面へと無反省に流用しようとする個々人の問題でしかない。

  そういえば、阪急構内にPitapa非利用者をまるで犯罪者のように後ろめたいものとして指弾する様子を描いたイラスト広告があり、それを目にした私は「こんなシステムは絶対に使ってやるものか」と決意した。目にしたのはつい最近のことなので、今でも視野に入ってしまうことがあるかもしれない。


  原画/脚本以外も注目されるべきだといった話が出ているようで、その言明はそれ自体として至極もっともなものではあるが、しかしそうした言明に肯定的な反応を示した人たちは、それが必要/重要であるのは何故/いかにしてであるかを考えているだろうか。ユーザーとして感想や批評を述べようとする場合に、一口に作品に関わった個々のスタッフの「評価」と言っても、「実作業をどれだけ行ったか」「クオリティに対してどれだけ実質的影響を持ったか」「クオリティに対してどれだけ決定権を持っていたか」「対内的にどの範囲でどれだけ責任を負っているか」「対外的にどの範囲でどれだけ責任を負っているか」「広報面で看板として(、あるいは、そのように)扱われたか」等々、様々な局面があり、そしてそのいずれの基準を採用するかは取り上げる者の切り口によって異なる、換言すれば論者はその都度自身の論題に照らして適切な基準を取捨選択して用いねばならない。例えば、AVGの文字しか読んでいない人たちは、ずっと脚本家の名前だけ挙げていればいい――それが(不当な逸脱的言及が最も少なくなるという意味で)最善である――と思う。同様に、絵に興味の無い人はグラフィックチーフの名前を挙げなくてもいい。他方で、作品全体のコンセプトワークや総合的品質を問題にする際には、その功績及び責任のしかるべき帰属先たるディレクターを無視して語るのはまったく不当であろう。あるいは、主題歌歌手を取り上げようとする場合には、本編部分の評価とはひとまず切り離して捉えねばならない(――「ひとまず切り離して」というのは本編部分の評価と"無根拠に"連動させてはならないという意味であって、しかるべき事情が見出される場合には適切に相互参照しなければかえって不当なあるいは一面的な評価となる)。


  あなたのような 眼鏡のよく似合う人が 死んではいけない。
  いささか状況の理解が及ばないが、どうやら眼鏡を誉め讃えているようなので、きっとこれは何か素晴らしいことを言い表しているに違いない。いや、知らんけど。



  2013/04/03(Wed)
  近年のかぐやが「落ちぶれ」ているというのは(その発言の失礼さを措くとしても)一面的な評判ではなかろうか。看板原画家の離脱を初めとしてスタッフ編成に大きな変動が生じたのは事実だし、その際に社内に様々な苦労があったことは想像に難くないが、それでも新作リリースペースはきちんと維持されている。『すぷらっしゅ!』(2010)以降の中価格~低価格路線は市場全体の趨勢があってのことだろう。個々の作品もその品質についての評価が極端に落ち込んだわけではない。タイトルが品のないものになったとは思うし、例えばEGScapeを見ても中央値50点台のタイトルが散見されるようになり、またデータ数の減少は痛ましいが、しかし70点以上の好評をもって迎えられているタイトルも多数輩出している。
  (正直に言えば、これまで原画家のネームバリューに乗っかって口先だけで無責任に持ち上げていた傍観者たちが付和雷同的に掌を返しただけ、という向きもあるだろうと思っている。)



  2013/04/02(Tue)
  モーツァルトのクラリネット協奏曲をBGMにしつつ展開される、妹と結ばれたありし日の思い出のシーンとは……。Waffleについては「このブランドはすごいんだろうな」というぼんやりした認識を持ちながらずっと手を拱いたままでいたが、実際にプレイしてみると技術力(プログラム/グラフィクス/演出)も優れているし、センスも興味深い仕方で洗練されているのがはっきりと見て取れる。BGMがふっと途切れて環境音――が周到に配置されている――のみの静寂が訪れる瞬間など、実に格好良い。キャラクター画像の表面がボロボロに剥離して崩れていくところなどは、『さよならを教えて』の同種表現をダイナミックにグレードアップさせている。
  『ヤバい!~』体験版の話です。

  十代の頃の私は今よりも偏狭だったので、「音楽はあくまで音楽なので、それを(あるいはそこから受けた主観的な感動やら何やらを)言葉でいかに美しく形容しようともそれは欺瞞に過ぎない。許されるのは、音楽言語の論理、あるいは音楽論理(楽理)の言語でしかあり得ない」と信じ込んでいた。今でもそう考えている面もあるが、しかし最近では、「ああ、この感興を言葉にしたい(自分の言語空間に反映させてみたい)」と感じる時も出て来たし、「言語的なものとして形成される感興(受容)もあり得るし、そのようなものは言語的に表現(形成)することも許される」と思うようにもなった。実際には、そのように振舞うことはまず無いし、そして基本的には言葉にならないものであり続けていることに変わりは無いが。もちろん、音楽(例えばBGM)の他の要素との関わりの中での作用に言及する際には、そうした枠を外れることは出来る(――以前の「BGMによる場面転換制御」は、その挑戦としてあえて饒舌を試みたものだった。成功したかどうかは分からないが)。


  うーん……FFDとTM……うーむ。


  カーソル動作が思わしくなかったので新しいマウスパッドを調達したら、カーソルがそれはもう気持ち良く滑りに滑ってくれるようになった。もちろん反応の正確さも十分。マウスを走らせまくるタイプのSLGをプレイしたくなってきた。美少女ゲームの中で言えばe.go!/でぼのRTS、『Rance』シリーズのRPG、EushullyのどうしようもなくごちゃごちゃしたSLG、あるいは『Maple Colors』のミニゲームあたりだろうか。「病みの声異聞録」とかも再プレイしたいが……HDDのどこかに眠っている筈。『南国ドミニオン』のあの日々のお仕事に満ちた孤島生活のクリックワークにも、もう一度深く浸ってみたい。Escu:de作品は、プレイヤーの入力操作の物理的負担はあまり掛けないような作りにしている(操作の多いタイトルでも、多用する特定のアクションにうまくホイール操作が割当てられていたりする)し、そのうえで操作感の心地良さが追求されているので、やはり何度でもプレイする価値はある。

  出来の良い/悪いインターフェイスがどのようなものであるかは、Eushullyを見ればよく――実感を持って――理解できる。あれは本当にひどいので、つい何度でも罵倒したくなる。クリックするためのボタンの大きさ。各項目を表示する画像のサイズとそのドットアートの造形の品質(――例えばユニット部分と背景部分が見分けやすいかどうか)。多数の項目を管理するための、リストの一覧性とソート可能性。必要な場合に一括操作できるためのボタンの有無(例えば装備全解除)。各ボタンを押下したらどうなるかが明示されていること(――押したら即時「決定」になるのか、それとも仮選択になるのか、関連情報が表示されるのか、etc.。右クリックの反応をどのように設計するかも同様で、「選択した項目を解除」になるのか「全体をアンドゥ」してしまうのかそれとも「前画面に戻る」のか、どのように設定することがユーザーにとって最善であるかを判断して設定すること)。入手した各アイテムが何に属し、どこに配置されているのかが容易に分かること。キーボード対応が充実し、そしてユーザー割付ができること。そしてもちろん、リアクションの機敏さ/鈍重さ。等々、等々。


  そうそう、本当に『花暦』は美しい作品だったのですよ。
  『美少女ゲーム声優のお仕事2』は、みる氏の舞台俳優的センスと金松氏のプロフェッショナリズムを窺い知ることができる、それだけでもう十二分に素晴らしい一冊だった。



  2013/04/01(Mon)
  これまでは購入するタイミングとプレイするタイミングはまったく別物と考えていたので、パッケージを買ってもすぐにはプレイしないのがむしろ普通だったが、しかしその都度の最新のゲームに触れていくこともやはり大事だと思うようになった。以前は、体験版をプレイすることでそういうセンスのアップデートが賄えていたのだけど、最近(ここ2年くらい)は体験版をプレイすることが無くなっていたこともあり、流行を捉えにくくなっているという自覚はある。最新の声優さんたちの最新のお芝居を聴くというのも大切だし。ということで、さしあたっては、新作(目安は発売3ヶ月以内?)と旧作を半々くらいの割合でプレイできたらと思う。もちろん、ブランドやクリエイターを軸にして旧作探訪するのも実に楽しいものだが。


  えっ……こまきさんって芸名だったの! わりと普通っぽいお名前なのでてっきり実名(本名)かと。

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